暇人の感想日記

映画、アニメ、本などの感想をつらつらと書くブログです。更新は不定期です。

「ヒーロー」としての責任の自覚【スパイダーマン ファー・フロム・ホーム】感想 ※ネタバレあり

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88点

 

 

 『スパイダーマン ホームカミング』より2年ぶりのMCU版『スパイダーマン』。MCU全体の前作は、シリーズの大団円である『アベンジャーズ/エンドゲーム』。『エンドゲーム』は、広げ切った風呂敷を完璧に畳んでみせた最高の完結篇であったわけで、個人的には大満足すぎる作品でした。しかし、同時に疑問を感じました。「これからどうするんだ」と。あまりにきれいに完結したため、ここからの展開は相当難しく、やり方によってはMCU自体の存続も危うくなります。まぁMCUですから、そこは織り込み済みでしょうし、そこまで不安には感じずに鑑賞しました。

 

 鑑賞してみると、『エンドゲーム』の後の作品として、『スパイダーマン』2作目として、そして、MCU全体の次のフェーズへの繋ぎとして、完璧な作品で、改めて「MCU恐るべし」と感じました。

 

 

 『エンドゲーム』は壮大な作品でした。戦いの規模は宇宙にまで広がり、これまで出てきた全てのヒーローが集結し、サノスに勝利を収めていました。しかし、それによって、市井の人々の描写がほとんどなくなってしまったという欠点を生んでしまいましたし、同時に、新たな疑問点(5年後の世界はどうなったのかとか)も生まれてしまいました。本作では、この部分を補完しています。冒頭、ホイットニーヒューストンの「Always love you」が流れ、市井の人々から見た、ヒーローを失った喪失感を描いてみせます。ちなみに「消えた人が復帰する」ことを茶化したシーンは爆笑しました。

 

 そして、本作は、前作『ホームカミング』で「ヒーロー」となった彼が「責任を自覚する」という成長物語となっています。その重責となっているのが、アイアンマンことトニー・スターク。世界を救ったヒーローである彼は、現在は神格化され、越え難い存在となってしまっています。彼の後継者としての期待を一身に背負ってしまっているピーターは、その重責に悩むわけです。しかもお年頃だから気になる女の子はいるわ夏休み満喫したいわと高校生らしい欲求もかなり持ち合わせているわけです。ピーターは、この重責と学生生活の間で悩んでいきます。

 

 

 そんな彼が今回立ち向かうのは、ミステリオ。演じているジェイク・ギレンホールが最高にハマっているキャラです。本作では、彼はピーターにとって、まずは「頼れる大人」として登場します。トニーを目の前で亡くし、悲しみに暮れているピーターにとっては、保護者代わりとなる存在として映り、中盤で完全に信頼してしまいます。しかし、ここからが本番でした。私は映画秘宝を読んで、彼についての知識は持っていたので「何か裏があるだろう」くらいには思っていましたが、中盤のあの展開にはビックリしました。ここで、ミステリオに対する印象がガラッと変わり、「頼れる大人」から、「大人の狡賢さ」を持った存在となるのです。本作でピーターが対峙しなければならないのは、こうした「大人」なのです。

 

 また、彼らの面白いのは、彼らのやっていることが、MCUというか、ヒーロー映画全体のメタ的な面を持っている点.彼らはドローンを駆使して映像を作り出し、被害を「演出」しています。そこで活躍するミステリオと信じる民衆は、「ヒーロー映画を信じている」私たちと「それを作っている制作者たち」の姿に重ねることができます。そしてこれは、「ヒーローがいる世界」を信じられるようになったからこそできる犯罪であり、同時にこの要素は、ピーターが「真のヒーローになる」ことと繋がっていると思います。

 

 ただ、ミステリオとその一味には、結構同情すべき点もあって、彼らは要するに、トニー・スタークの被害者なんですよね。アイツって結構ひどい奴だし、ぶっちゃけ恨みもかなり買ってた。本作は、彼の被害者たちの復讐なんです。つまり、本作でピーターが対峙する敵は、トニーの負の側面が生んだ奴らであり、同時に狡猾な「大人」なわけです。

 

 

 そんな敵に対し、ブレブレなピーターは1度は完敗してしまいます。しかし、ハッピーという、トニーの理解者の言葉で自分を取り戻し、自らの手でスーツを作り上げます。ここの姿は完全にトニー・スタークのそれ。片鱗とはいえ、ピーターがトニーの精神を「継承」した瞬間でした。

 

 「偽物」のヒーローを倒し、自らが責任を背負い、「真のヒーロー」として活躍する決意をしたピーターは、遂にニューヨークの街をスイングします。あの時の爽快感は凄い。そして本作を通し、「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という『スパイダーマン』の核ともいえる概念が浮かび上がります。トニー・スタークという重責を背負いつつ、ヒーローとしての力を使う決意をしたピーター。その姿勢に、ファースト・アベンジャーズ無き後のMCUが、次の段階に入ったことを強く感じました。

 

 このように本作は、『エンドゲーム』の後の作品として、『スパイダーマン』2作目として、そして、MCU全体の次のフェーズへの繋ぎとして、完璧な作品であったと思います。でも一番驚いたのはまさかのJ・Kシモンズの登場でした。

 

 

前作。こっちも好き。

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 MCU前作。

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「役割」を終えたその先へ【トイ・ストーリー4】感想

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採点不能

 

 

 『3』で完璧に完結したと、誰もが思っていた『トイ・ストーリー』シリーズ。そのまさかの続篇。正直、制作発表を聞いたときは当時のピクサーの不調と関連付けて、とうとう「完結作の続篇」という安易かつ絶対にやってはいけない手段に手を出してしまったのかと思いました。また、制作はラセターが抜け、脚本は大幅に作り直され、公開が遅れるというゴタゴタが起こっていたし、しかもここ最近のピクサー、ディズニー作品にあまり乗れていなかったこもあり、いくらアメリカの方で評価が高くても不安を抱いていました。しかし、ファンとしては観ないという選択肢は絶対に無く、前売り券を購入して鑑賞した次第です。

 

 鑑賞してみると、正直言って絶賛されていることがちょっと信じられない作品でした。それは作品の出来が悪いわけではなく(寧ろ凄くいい方だと思う)、本作が『トイ・ストーリー』シリーズが3作かけて積み上げてきたテーマを真っ向からひっくり返している大問題作だからです。

 

 

 『トイ・ストーリー』シリーズは、3作通して「あるべき自分の役割」を描いていました。1作目はバズとウッディのバディものとしての面白さもさることながら、「自分はスペース・レンジャーである」との自負を持つバズが、ウッディに「おもちゃである」と説得されて、「あるべき自分」になる話でした。続く2作目はこの役割が逆転し、トチ狂ったウッディをバズが説得し、「あるべき姿」へと戻していました。そして3作目は、「アンディと一緒」ではなく、「おもちゃとして、子どもと遊び続ける」ことをウッディは選択し、「おもちゃとしてあるべき自分」へと回帰していました。この「役割の貫徹」を見事にこなしたからこそ、『3』はあそこまでの大団円になったのです。

 

 ただ、私が『トイ・ストーリー』シリーズに惹かれるのは、こうした要素ではなく、純粋に「おもちゃに対する後悔や遊んだ思い出」が想起されるからだと思います。誰しもおもちゃで遊んだ記憶があり、卒業し、捨てるか押し入れの中にしまってしまう。彼らが人格を持っていたとしたら?『トイ・ストーリー』は、シリーズを通して「人格を持ったおもちゃ」を深掘りしていったシリーズでもあり、それ故に上記の思い出が想起され、私たちは後悔の念を感じてしまうのだと思うのです。

 

 そして、この「人格を持ったおもちゃ」の要素が極限まで描かれたのが『3』。もし彼ら彼女らが人格を有していた場合、私たちは彼らを無理やり使役し、捨ててしまうという大変非道なことをしているという現実を突きつけてきました。それ故に『3』のラストは感動的であったわけですが。

 

 

 さて、ここから『4』(以降、本作)の感想を書きたいと思います。『3』のラストで、おもちゃの役割を「延命」できたウッディたちですが、ボニーもいずれ大人になるはずです。そしたら、また彼ら彼女らは捨てられる運命になります。この無間地獄ともいえるおもちゃの運命に救いをもたらすのが、本作です。

 

 まず、冒頭が素晴らしくて、「きみはともだち」にのせて『1~3』までの流れを一気に見せていくあの下りは、これまでのシリーズに抱いてきた感情が一気に出てきて、あそこで既に泣いてました。そこから、スムーズに本編へと移っていきます。

 

 ここで私が驚いたのが、ウッディがもはや用済みに近い状況になっている点。そりゃ彼は50年代のおもちゃだし、どちらかと言えば男の子向け。女の子は、そりゃキャラ被りしているジェシーを使いますよ。そしてウッディと同じ場所にいるのは、「卒業」したおままごとセットたち。もはや用済みなのではとアイデンティティ・クライシスに陥っているウッディの前に、ボニーが作った「フォーキー」という「おもちゃ」が現れます。ウッディは、自らを「ゴミ」と言うフォーキーを何とか「おもちゃ」として自覚させようとさせます。

 

 ここまで考えると、本作は『1』に非常に近い印象を受けます。ちなみに、本作には冒頭のRC救出作戦など、『1』のオマージュも散見されます。違う点は、ウッディがアイデンティティを喪失していて、「過去の栄光」にすがっていること、そしてフォーキーが元々「おもちゃ」ではないこと。このウッディの姿は、どう考えても昨今流行りの「役割を失いかけている男性」でしょう。本作は、この役割を失い、「過去の栄光」にすがっているウッディが「自分自身」を見つけるまでの話だと思います。

 

 その過程で重要な存在の1人がフォーキーなわけです。彼は「おもちゃ」ではなく、ゴミです。でも、ボニーにとっては立派な「おもちゃ」。「ゴミでも、誰かのおもちゃになれる」という多様性を感じさせます。

 

 もう1人が本作のヒロイン、ボー・ピープ。1,2作目では「ウッディ、大丈夫かしら・・・」と言って待っているだけだった彼女ですが、本作ではキャラ崩壊ではないレベルで逞しくなっています。もう別キャラと言っていい。彼女はもはや1つの確立した存在であり、1人の子供に縛られることなく、世界を自由に旅しています。この辺はやっぱりポリコレなのだと思いますが、彼女の存在が、ウッディのアイデンティティを揺るがしていきます。

 

 

 更にもう1人重要なのが、本作の(一応の)敵キャラ、ギャビー・ギャビー。彼女はウッディの合わせ鏡で、「子供と遊ぶ」願望に囚われ続けている存在です。彼女は最終的には1人に拘らず、ある女の子と一緒になります。ここも「子供は1人じゃない」点を強調していますね。彼女の存在でウッディは自分を見つめ直していきます。

 

 アイデンティティが揺るがされるというのは、過去の作品でもありました。ですが、その度にウッディは戻ってきています。しかし、本作は全く逆を行きます。ウッディは「内なる声」に従い、「仕事人間」だった自分ではなく、「自我」を持って、「選択」をし、「無限の彼方へ」飛び立ちます。「あるべき役割」に収まっていたシリーズ全体で考えると、ここが最大の禁忌であり、『1』の反転であり、問題点なのです。私は、未だにここを受け入れることができていません。

 

 しかし、「作る意味があったか?」と問われれば、私は「ある」と答えます。というのは、先述の通り、『トイ・ストーリー』は、シリーズを通して人格を持ったおもちゃを描いてきました。もし人格を持っていれば、おもちゃたちは、常に「捨てられる」という恐怖の中にいます。ボニーですらそこは例外ではなく、いずれは離れていくでしょう。『3』のラストは間違いなく素晴らしいものでしたが、この点を無視した「理想」でしかないのです。

 

 本作は、ここをしっかりと描き、おもちゃ全てに救いを与え、同時に、私たち「大人」になってしまった元少年たちに対して「失くしてしまっても、捨ててしまっても、彼らはどこかで生きているかもしれないね」という救いをも与えている作品だと思います。

 

 また、同時に、本作を否定することは、「多様性」すらも否定することになってしまいかねない気がするのも歯痒い点。もしおもちゃに人格があれば、過去のシリーズは「役割」に押し込めようとするだけの話になってしまい、昨今の風潮には合いません。故に、本作を制作した事で、『トイ・ストーリー』シリーズそのものが新しい価値観へとアップデートされており、シリーズの普遍性をさらに高めていると思いますよ、ええ。

 

 他の点では、やはりCGが素晴らしかった。特に、おもちゃごとの質感の再現が完璧です。また、アンティーク・ショップの構造を上手く使ったアクション・シーンや恐怖演出も抜群でしたし、合間合間に挟まれるギャグも最高でした。特にダッキーとバニーが最高で、チョコレートプラネットの2人の素晴らしい演技も相まって笑かしてもらいました。後は完全にキアヌ・リーヴス本人のデューク・カブーンも最高でしたね。

 

トイ・ストーリー4 リモートコントロールビークル デューク・カブーン

トイ・ストーリー4 リモートコントロールビークル デューク・カブーン

 

 

 ただ、先にも書いたとおり、私は、この結末をまだ受け入れいることができていません。しかし、ウッディやおもちゃ全体への救いを描いた本作は、高評価されるのも分かりますし、受け入れられるような人間になりたいと、心から思います。

 

 ラスト、やはり「空」で終わる本作ですが、その空には、一筋の光がありました。暗闇でも、ウッディの未来は明るい。こういうことでしょうか。ファンとしては、こう思うしかありません。彼のこれからの人生に、幸多からんことを願います。

 

 

製作総指揮であるリー・アンクリッチ監督作。こっちはあまり乗れなかったなぁ。

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 こっちも「レリゴー」する話。こっちも乗れんかった。

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「生命の起源」から、自分を見つめ直すジュブナイル【海獣の子供】感想

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87点

 

 

 2006年から2011年にかけて「月刊IKKI」にて連載されていた五十嵐大介先生原作の漫画を劇場アニメ化した作品。私は、原作については、存在は知っていたけど読んではいなかったのですが、スタジオ4℃作品なので鑑賞しました。

 

 実は、私が本作を鑑賞したのは公開されてすぐの6月9日でした。それなのに何故ここまで書くのが遅くなったのか?それは私が原作を集めるのに非常に苦労したからだ!ガハハハ。現在、原作は全国的に品薄状態らしく、2つ先の駅にある大型書店とか地元の本屋とかを散々回っても全く見当たりませんでした。原作を読まずに感想を書くという選択肢もあったとは思いますが、五十嵐大介先生の作品はこの機に読んで見たかったし、何より本作は原作を読んでそこからの比較とかをした方が感想を書きやすいと思ったので、探しまくりました。そしたら、何と最寄り駅の本屋に、非常に分かりにくい場所に置いてあったのを発見。急いで全巻買って読破し、こうして感想を書けたという次第です。つーか、小学館やる気あんのか。

 

海獣の子供 (1) (IKKI COMIX)

海獣の子供 (1) (IKKI COMIX)

 

 

 さて、ここから感想です。読んでみて感じたのは、評判通り、本作は非常に「癖の強い」作品だということ。まず絵が独特なのです。大きい瞳、そして時にはボールペンを使って書いたという独特のタッチの絵、そして描かれるのは「宇宙規模の生命の誕生」という超壮大なもので、原作は単行本にして全5巻で、周到に作られているから圧縮もできない。並の作り手ならば手を出そうとはしない作品だと思います。

 

 しかし、そこは『鉄コン筋クリート』で松本大洋先生の世界観を完璧に再現してみせたスタジオ4℃。五十嵐大介先生の絵はそのままに、目を見張るハイクオリティな映像を作り出しており、その圧倒的なアニメーションをひたすら浴び続ける至福の111分でした。

 

 本作は、観た方ならば誰でも分かると思いますが、上述の通り凄まじいクオリティのアニメーションが堪能できます。それは偏に本作のキャラクターデザイン・作画監督小西賢一さんの技術、そしてそれを支えたアニメーターさん、CGI、美術の皆さんの力のおかげです。キャラクターの日常芝居はもちろんですが、やはり「海」が素晴らしい。鯨が出てきたときの水しぶきや、水の中の本当に潜っているかのような透明感等、観ているだけで海を感じ、それだけで惚れ惚れします。ちょっとこれはIMAXで観たかったな。

 

 海以外にも、本作は全体的に、背景というか、人間以外の生命体、自然の描写がきめ細やかに描かれていて、画面の中は凄まじい情報量でした。例えば、窓からさす光とそこで舞う塵、画面の端にいる虫や動物、そして植物。全てが今動いていて、生きているような気がするのです。画面そのものに生命が宿っているのです。これは美術の木村慎二さんも意図的にやったようです。

 

 そして、これこそが本作のテーマに直結しています。というのは、本作はそもそも「生命」の話であるから。正直、私はパンフレットの添野知世さんのコラムを読むまで「まぁ生命の受け渡し的な内容なんだろな」程度にしか分かっていなかったのですが、本作はパンスペルミア説という、隕石を生命の種まきに例えた学説を採用しているSFであり、海を「生命の母」とし、その「海の母」が宇宙という話なのです。で、そのカギとなるのが海と空という少年で、クライマックスで琉花はその儀式に立ち会い、宇宙規模の生命の受け渡しを体験します。

 

「海獣の子供」オリジナル・サウンドトラック

「海獣の子供」オリジナル・サウンドトラック

 

 

 「本番」の前に生命から生命の受け渡しを端的に示してみせたのは、あの最強の飯テロシーン。「生き物を食べる」という行為を丁寧に見せつつ、作品のテーマを語らせるという、非常にスマートというか、上手い演出でした。このように、本作は、このテーマを真正面からきちんとやっているのです。

 

 起こっていることは壮大ですが、描いていることは非常に小さく、琉花の一夏の経験というジュブナイルです。ここが原作と大きく違う点で、原作は「生命の出産」に重点が置かれ、終盤では琉花はそこまで活躍せず、他のキャラクターが動くことで物語が動いていきます。ここで大切なのが「海」と「陸」というような壁ともいえる要素の事。よく観てみると、本作の登場人物は皆どことなく「壁」を持っていて、分かりあっていない気がします。琉花は冒頭でクラスメイトに怪我を負わせますし、彼女の両親は別居中です。そして、冒頭の水族館に象徴されるように、琉花と海の間には、最初はガラスという「壁」がありました。余談ですが、ここまで考えると、何だかエヴァっぽい話だなと思いますね。

 

 

 何故このような断絶が起こるのかというと、おそらくそれは各々が「生命の海」から独立した1つの生命体であり、「言葉」という非常に曖昧なコミュニケーションを用いているから。 劇中で言及されていた通り、本作では、クジラのエコーロケーションや、「地球の声」ともいえる自然が伝えているものは、人間の言葉よりずっと多くのことを伝えているのだとされています。

 

 本作はこのような「生命の秘密」を琉花という少女が知り、1つの生命体として自分自身を見つめ直し、成長するという非常にミニマムな話なのだと思います。

 

 話自体は一筋縄では理解できませんが、本作はその圧倒的なアニメーションを観るだけで価値があります。それもきちんと劇場で。大スクリーンで観てこそ、ラストの一大トリップシーンに衝撃を受けますし、海の存在感を感じ、より「映像を浴びる」体験ができると思います。私としては大満足な作品でした。

 

 

同じくスタジオ4℃作品。こっちは話自体は微妙でしたが、アクションシーンは圧巻でした。

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 同じくスタジオ4℃の傑作。

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 渡辺歩作品。1話分しかないけど。こちらも素晴らしかった。

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2019年冬アニメ感想⑧【どろろ】

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 私が原作と出会ったのは、小学校低学年の頃でした。当時の私は、親がよくやる「自分の好きなものを子供に見せる」という教育の一環で手塚治虫原作の「鉄腕アトム」「ブラックジャック」を読んだばかりでした。私は「アトム」にはそこまでハマれなかったのですが、「ブラックジャック」にはドはまりし、「手塚治虫って面白い作品を書くのだなぁ」と意識し始めていました。そんなとき、親戚の家に置いてあった「どろろ」を発見したのです。

 

 4巻読んでみて、私はすぐにハマりました。生まれる前に奪われた体の欠損部分を取り戻すというシンプルな内容も当時の私的には分かりやすかったですし、何よりどろろと百鬼丸というキャラクターが魅力的でした。生まれる前に体の48カ所を魔物に奪われるという悲劇を背負いながらも、その運命に真っ向から立ち向かっていく百鬼丸と、同じく悲劇的な生い立ちを持ちながら前向きに生きるどろろ。描かれている戦国時代は過酷であり、無残帳の下りは「こんなひどいことがあるのか」の連続でした。しかも2人はどこに行っても迫害されます。このどこにも行く当てのない2人が繰り広げる会話や活劇に、どうにも私は共感していたのです。

 

どろろ 1

どろろ 1

 

 

 また、これは不謹慎かもしれませんが、純粋に百鬼丸がカッコよかった。欠損部分を補うためにサイボーグのように自身の体を作り、両手が刀の鞘代わりになっていて、いざというときは両手を刀にして戦うという設定は、小さかった私にはカッコよく映ったのです。

 

 これくらいには思い入れがあったので、アニメ化が発表されたときは本気で心配していました。「大丈夫なのか?」と。題材自体には問題ありません。原作の内容はどの時代でも通じるものだと思っています。しかし、問題は近年制作された手塚先生原作作品の出来でした。他の方が書かれたスピン・オフはともかく、手塚作品のアニメ化となると、途端に微妙な出来になってしまうのです。具体例を出すと、TVアニメ版「ブラックジャック」とか、「火の鳥」とか、映画「ブッダ」とかです。しかも「どろろ」にいたっては謎の実写版という代物もあります。これくらい前例があれば不安になるのも致し方なしです。

 

手塚治虫のブッダ 赤い砂漠よ!美しく【DVD】

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 しかし、ティザーのPVが公開され、制作会社がMAPPAであること、そしてPV自体がかなり出来が良かったことから、印象が変わります。その後、メインスタッフ、キャラデザ、あらすじが公開され、一抹の不安を覚えながらも視聴した次第です。

 

 24話全てを視聴してみたところ、個人的には満足できる出来の作品でした。 原作の最終的なテーマはそのままに、原作にあった「隙」を上手く独自設定で補完し、作品を深めていたと思います。

 

 アニメ版について書く前に、原作漫画について書きたいと思います。原作漫画は「48匹の魔物を倒す」という壮大な内容に対して4巻という巻数の少なさが示している通り、打ち切り作品です。勘弁してくれよと思いますが、手塚先生の熱意が薄れてしまったらしいんですよね。だから最後に鵺を出して、どろろ一揆を率いて醍醐景光を倒して終わっていました。

 

 本作はこの中途半端に終わってしまった原作にさらにオリジナル要素を入れて補完し、深掘りし、上手くアレンジしています。

 

さよならごっこ(期間生産限定盤)(特典なし)

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 まずは、作品の根幹となる「百鬼丸が体を取り戻す」というもの。原作ではそれ自体を普通に「良いこと」として描いていましたが、本作では次の3つの点で深掘りしています。

 

 1つ目は醍醐景光の、鬼神との契約です。原作では醍醐景光はただ天下が欲しいがために百鬼丸を鬼神に差し出しました。しかし、このアニメ版ではこれに加えて、この鬼神との契約のおかげで領地が栄えているという点を強調し、百鬼丸が体を取り戻すごとに領地が苦しくなっていくという設定を追加しているです。これによって、醍醐景光のキャラクターにより深みが出たように思いますし、百鬼丸は「何かを犠牲にして、体を取り戻している」という点が強調され、ストーリーそのものがよりドラマチックになっています。

 

 そして2つ目は、「体を取り戻す」ことで、まだ無垢だった百鬼丸がこの世界の残酷さを知っていくようにしている点。原作では、体の一部を取り戻すことを純粋に「良いこと」として描いていることとはまるで逆です。例えば、百鬼丸は耳を取り戻したとき、初めて聞いた声は自分が斬った男の妹の泣き声でしたし、声が戻ったときは、最初に発したのは痛みからの苦しみの叫びでした。ここは、世界そのものの苦しさや痛みを象徴しているシーンな気がして、素晴らしかったです。このように、このアニメ版では百鬼丸が体を取り戻すことを単に「良いこと」として描かず、「世界の残酷さ」を知っていく過程として描いているのです。

 

 最後に、3つ目はキャッチコピーにもなっていた通り、百鬼丸を「人と鬼の狭間」で揺れ動く存在として描いた点。原作にもあった通り、「どろろ」という作品は百鬼丸が人間になっていく話です。しかし、百鬼丸の道は、寿海も言っていた通り、血にまみれています。何かを犠牲にしなければ体は取り戻せないという点を強調しているため、狂気に押しつぶされ、鬼神になるのか、それとも「人」になるのかという点が強調されます。

 

 そしてこの点は、作中の人物にも当てはまります。醍醐景光は領地のためとはいえ、息子を鬼神に差し出すという人の道に外れたことをしましたし、作中で出てくる権力者や、恐怖に呑まれてしまった人間、侍も非道な行為をしています。こういった人たちを描くことで、「人」が「人」として生きていくというテーマが浮かび上がってきます。

 

 

 そんな百鬼丸とは対極の位置にいるのが、百鬼丸の実の弟、多宝丸。原作では何となく嫌な奴程度の描き方でしかなかった彼ですが、このアニメ版だとかなり深く掘り下げて描かれています。鬼と人の狭間で揺れ動きながらも、どろろとの触れ合いで「人」となっていく百鬼丸と対照的に、多宝丸は最初から「人」であり、睦と兵庫という友までいるのに、鬼神に魂を売り、「人」の道を外してしまうのです。この2人のキャラの対比の仕方は、同じく手塚治虫先生原作の「火の鳥 鳳凰篇」の我王と茜丸を彷彿とさせます。インタビューを読むと、古橋監督は他の手塚漫画からエッセンスを盛り込もうと「火の鳥」とか「ブッダ」を読んだらしく*1、ひょっとするとこの対比はこのせいかもしれません。

 

 これらの点から、本作では「国家のために個人を犠牲にするのか、それとも個人の命のために国家を犠牲にするのか」という問いかけがなされていると思うのです。これの縮小版が14話と15話だったと思います。24話の百鬼丸の「腕」が戻るシーンは、この対比をしっかり描いた名シーンだと思います。

 

 このように、百鬼丸と多宝丸だけ見ても、原作とかなり変わっています。しかし、これは原作を尊重していない改変ではなく、寧ろ原作にあったテーマをさらに深く描くための改変となっている点が本作の素晴らしい点です。原作は、急だったとはいえ、一応「侍という権力との戦い」で幕を閉じます。今回のアニメ版では、そこをかなり丁寧に描き、「搾取される側」のエピソードを紡いでいきます。そして、百鬼丸が「奪われた」姿を農民が搾取されてきた姿に重ね、それを取り戻す百鬼丸どろろが傍らで見続けたことで、「自分たちのものをは自分たちで守る」という自治の考えに至るという作りになっているのです。確かに、侍や権力に身を任せた方が国家の運営は楽かもしれない。けど、それでは自分たちは搾取されるだけ。「誰かの犠牲の上に国家を成り立たせる」のではなく、自分たち自身が国家を作っていく。この流れは私は舌を巻きました。

 

 本作は、百鬼丸が「人」になるまでの話でした。体を取り戻す過程で世界の残酷さを知っていく百鬼丸ですが、それでも全てを取り戻してその手でどろろを抱き、本物の目で見た世界の感想は、「きれい」でした。この時、百鬼丸は本当の意味で生まれたのだと思います。

 

 本作がさらに抜け目がないのが、原作では想像するしかなかったどろろと百鬼丸の関係を示している点。「人」に戻った百鬼丸どろろと再会することを予期させるあのラストは締めとして素晴らしかった。

 

 このように、本作は手塚治虫の原作をより現代的に、深く解釈した作品だと思います。私は素晴らしいと思いました。

2019年春アニメ感想②【ぼくたちは勉強ができない】

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 現在、週刊少年ジャンプにて連載中のラブコメ漫画。タイトルには「ぼくたち」が入っていますが、本作で勉強ができないのはヒロイン達なので、正確には「わたしたち」なんじゃないかと余計なことを考えますが、まぁそんなことはどうでもいいか。原作が人気なので視聴した次第です。

 

 ラブコメといえば、媒体を問わず、広く支持されているジャンルです。過去には数多くの作品があり、下手をうつと過去作の二番煎じになってしまう、という持論は「かぐや様」の記事で書きました。本作の特徴は、「受験勉強」が物語の芯になっている点。本作はこれがきちんと骨子になっていました。

 

 この手のラブコメにおいて重要な点の1つは、如何に違和感なくハーレム状態を維持させるかにあると思っています。特に少年誌だと、これは男の「モテたい」という願望の表れなわけで、戦線を維持し、読者をヤキモキさせることが重要になるため、尚更大切。しかし、これは結構難しい問題で、下手なやり方をすれば読者から総スカンを食らってしまいます。「え?なんだって?」とか「キムチ」とかが良い例なんじゃないでしょうか。

 

ニセコイ 25 (ジャンプコミックス)

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僕は友達が少ない (11) (MF文庫J)

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 本作はこの点が割としっかりしていて、上手く均衡状態を維持させています。メインヒロイン3人に関して言えば、理珠は「非論理的なことが分からない」から恋愛感情が分からないし(だからこそ心理学を学びたいと思っている)、うるかは成行のことが好きすぎるが故に重荷になりたくないと受験を理由に告白はせず、文乃はそんな2人の好意を知っているが故に成行への好意に無自覚なふりをしている。これらは3人が「勉強を頑張る」理由と被っていたり、キャラクターに合っている理由で、違和感はありません。

 

 そして、大学受験という、学生時代の中でも特に明確な目標とゴールがある時期を描いて、ちゃんとドラマを作っているわけです。この点だけでも、時間の流れをサザエさん方式にして、ただ主人公をハーレム状態にするだけの作品とは一線を画していると思います。

 

 本作で描かれていることは、夢と才能だと思っていて、自分の道を決めなければならない時に努力して夢を追いかけるか、才能を活かせる方に行くかという、学生時代というモラトリアムで描けることを描いているわけです。人間って、そういう選択と経験を通し、大切なことに気づいたり、友情を育んだり、挫折したりして、また一歩成長したりします。これらの出来事を一気に経験できる時期が受験期なわけです。

 

 こういった内容的なものの他には、作画に結構なフェティシズムを感じる瞬間が幾度もありました。筆頭はOPなのですが、本編中にもキャラクターの芝居や着ているもののしわとか細かい点にフッと出てくることがありました。

 

 確かに、ラブコメ特有の突拍子もないキャラ回とかは見てて恥ずかしくなったりしたけど(ここは俺も年取ったんだなと実感した)、見ていてだんだんキャラクターに愛着が湧いてきて、楽しませてもらいました。2期もあったら見るかね。

 

 

同じくラブコメ。こっちも面白かったぞ。

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 劇場アニメ。こっちはリア充アニメでした。

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「違い」こそ最大の長所【ダンボ(1941年)】感想

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77点

 

 

 

 3月に公開された、ティム・バートン版『ダンボ』の予習の意味で鑑賞。実写版のほうは結局観なかったのですが、かといって本作を観たことが無駄になったかといえばそんなことはなく、名作とされているだけあってとてもいい作品でしたし、70年以上前とは思えないくらい現代にも十分通じる普遍的な内容が込められていた作品でした。

 

 本作については、まずダンボの可愛さにつきます。私は基本的に「かわいい」とかはあまり思わない性質で、むしろそれに群がっている連中に背を向けたがる男なのですが、ダンボにはやられましたね。やっぱり、生まれたばっかりだから反応が素直で、そこが刺さったのか、はたまた単純に造形的な面が刺さったのか・・・。ちょっと自分でも説明できません。まぁ可愛さなんてそんなものですよね。

 

 そしてもう1つは、アニメーションの素晴らしさ。キャラクターの動きは恐ろしいくらいヌルヌル動き、CGが入っているのかと錯覚するレベルです。ここはさすがディズニー、といったところでしょうか。さらに、キャラの動きだけでなく、アニメーションならではの自由自在な映像表現も健在で、よりにもよってダンボが酔っぱらって見る幻覚に使われています(これ、子供に向けられた映画だよな)。観てるとクラクラしてきます。

 

 本作で描かれていることは、実際はかなりシビアです。しかし、先述の通り、そこから発生するメッセージは、非常に現代的なものです。

 

 ダンボは見た目は可愛らしく、最初こそ他の象たちにも祝福されます。しかし、「耳が大きい」という「奇形」を持って生まれたがために、不当に差別されるのです。本作は可愛らしいダンボが繰り広げる大冒険的な話ではなく、「差別」と「奇形」の話だということが分かります。ダンボは「みんなと違う」からいじめを受け、みんなができることができないのです。中盤のサーカスで、その大きな耳に足を取られ大失敗を犯すシーンは、この点を強調していると思います。

 

 本作はマイノリティの話でもあります。マジョリティであるおばさん象連中にはいじめられているダンボですが、寄り添ってくれる者が現れます。それがネズミのティモシーです。彼は雄弁なネズミですが、物陰から出てきたり、ダンボと同じくおばさん象たちから毛嫌いされています。彼ものけ者なのです。そして、さらに加え、終盤で出てくるカラスもそうです。カラスの色は黒です。これはひょっとして・・・と考えてしまいます。

 

 そんな「除け者たち」の鼓舞を経て、ダンボは自身の欠点であった耳を以て、誰にもできなかった「空を飛ぶ」という偉業を成し遂げます。ここから、本作は、「誰にでも個性があり、それらを認め、伸ばしてやる」という当たり前の内容を読み取ることができます。割と物事を単純化させ、差別的なイメージを植え付けていた感のあるこの頃のディズニー作品の中でも(これは偏見かな)、かなり好きな作品です。

 

 

同じくディズニー作品。こっちは「レリゴー」する話でしたね。

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 ティム・バートンの代表作。

inosuken.hatenablog.com

 

2019年春アニメ感想①【さらざんまい】

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 「少女革命ウテナ」「輪るピングドラム」など、独特すぎる作品で知られる幾原邦彦。本作は、2015年に放送された「ユリ熊嵐」から4年振りとなる彼の最新作です。彼の作品はとりあえず見ますし、「少女革命ウテナ」と「輪るピングドラム」は好きなので視聴した次第です。

 

 幾原邦彦さんは、作風自体はとても独特です。バンクシステムを流用や、演劇を模したかのような演出、ハッタリ、ケレン、メタを駆使した構成など、作品は「幾原印」とも言える要素がたくさんあり、全体としてはキッチュな感じすらあります。しかし、その印象とは裏腹に、そこで描かれていたことは、中々普遍的なものだったと思います。だからこそ、私は彼の作品が変でも最後には感動してしまえるのでしょう。

 

 

 本作で描かれていることは、「人と人のつながり」です。普通ですね。しかし、幾原監督にかかれば、一筋縄では理解しがたいものになります。

 

 まず、本作の基本的な流れを書いてみます。「欲望搾取」からの「カワウソイヤァ」でカパゾンビが出現。一希をはじめとする3人の男どもは誰か1人の尻子玉を抜いてもらうことでカッパになり、「さらざんまいのうた」でカパゾンビの欲望をカッパらいます。そしてさらざんまいを発動させ、自信の秘密を漏洩させることで、「銀の皿」を獲得していきます。

 

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 基本的に各話の後半はこれをバンクで使い回していきます。本作はこれを繰り返して話が進んでいくのですが、話が進むにつれて、どんどん皆の秘密が漏洩していくのです。そして、この「漏洩」こそがつながりを描く上で必要なものなのだと思います。

 

 我々は、皆大なり小なり他人には言えない秘密を抱えています。本作の登場人物もそうです。一希はアイドルに女装して弟を欺いているし、燕太は一希に性的な意味で好意を抱いています。また、悠は殺し屋家業の手伝いとかしてるわけです。彼らは、これらの秘密=欲望を持っています。そして、各々がそれぞれ特別な人と「つながりたい」と考えています。でも、これらがバレたら「つながれない」から隠しているわけです。

 

 さらざんまいの漏洩は、これらの秘密を暴き、秘密を共有させることで、互いの真意を知り合うという機能を果たしているわけです。そして、その秘密を知った上で交流を結ぶことこそが、本当の意味での「つながり」であり、アイツらにとっての「成長」なのだと思います。

 

 この「つながり」については、具体的には、中盤の山場である、一希のエピソードが印象的です。家族とつながれず、疎外感を抱いていた彼が、「つながり」を友人と共に獲得するあの下りはとてもいいものでした。個人主義だ何だとか言われている現代人的には、この「つながりたいけどつながれない」は非常に普遍的なテーマだと思います。

 

 テーマは普遍的でありながら、外見は幾原節全開。まずはバンク。このバンクがもう、見ていて実に楽しい。何が起こっているかはよく分からないのですが、アニメーションがダイナミックな感じで、しかも過去作と同じく、歌もそれぞれが妙に中毒性があるもので、何回同じものが流れても飽きません。他にも、モブとか、キャラの設定が次から次へと明らかになる展開など、過去作と似ている要素はかなり多いです。

 

 しかし、本作には、過去の幾原作品とは決定的に違う点があります。それは、本作が「男の物語」である点。これまでの幾原作品では、男というのは、女の野望や、望みを叶えるための障害、若しくは犠牲でしかありませんでした。しかし、本作において男は、犠牲になるでもなく、最後に「つながり」を獲得します。さらに、女性キャラもほぼ出てこず、BLがメイン。玲央と真武の2人は泣かせましたね。この点は新しいのではないでしょうか。

 

 このように、本作はキッチュなもので普遍的な「つながり」を描くという幾原作品的な内容でありながら、男キャラが救済されるという、過去の作品とは少し違う内容も持つ作品でした。