暇人の感想日記

映画、アニメ、本などの感想をつらつらと書くブログです。更新は不定期です。

「復讐モノ」の娯楽作として最高【デス・ウィッシュ】感想

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85点

 

 

 『狼よさらば』のリメイク作品。監督はイーライ・ロス。私はグロがダメなので、実はこの監督は敬遠していました。だってフィルモグラフィを見ると、『ホステル』とか『グリーン・インフェルノ』とか『ノック・ノック』とかいかにも私が苦手そうな作品ばかりが並んでいるじゃないですか。「この監督とは縁がねぇな」そう思っていました。ですが、本作は予告を見る限りではそこまでグロは無さそう。しかも「悪人を全員死刑にする」みたいな映画を観たいと思っていたので、イーライ・ロスデビューのつもりで鑑賞しました。

 

 まず、調べてみて驚いたのですが、オリジナルの『狼よさらば』は単純な復讐モノではなく、寧ろその復讐のやり方の虚しさを感じさせる作品だったということ。もしその通りだと、当時の私的にはやや物足りない作品になっていたかもしれません。しかし、実際の感想としては、非常に面白い作品でした。今時珍しいくらい純粋な「復讐モノ」でありながら、かなりしっかり作られているし、きちんと現代的なアップデートもされている良作です。

 

 本作は「復讐モノ」で、基本的な流れは非常にオーソドックスです。要はまずは主人公のポール・カージーの幸せな家庭を見せる→悪漢に襲われ、家庭がメチャクチャに→復讐!って感じです。本作はこの一連の流れをしっかりと見せてくれます。秀逸なのが序盤のポール・カージーの日常描写です。見るからに幸せそうな一家なのですが、そこに唐突に、かつスッと入ってくる暴力的なシーンが良いのです。ここで、既に不穏な空気を感じさせ、「この世界に確かにある暴力」を我々に認識させます。さらに、主人公が医者であることも物語に深みを与えています。

 

 そしてやってくる襲撃シーン。ここは本当に不気味で不快で、悪漢への憎しみを掻き立てられます。さらに、これのおかげで、ここからの主人公の苦悩に同情できます。しかもここから、主人公の住む場所が地下に変わり、絵的に苦悩を感じさせるのも上手いなと。

 

 中盤からポール・カージーの自警活動が始まるわけですが、彼の仕事が皆に知れ渡り、一躍彼はヒーローとして扱われ始めます。最初の「不慣れ感」も良かったのです。ここで使われるのがネットの動画が拡散されたという点も現代的だなぁと。ただ、本作はただの暴力賛美映画ではなく、この時点でポール・カージーが悦に入り始める姿を入れたり、終盤で見せる地下室が完全に「イッちゃってる人」の精神世界のようだったり、「自警活動」でポール・カージーが壊れていく姿を見せるのもバランスが取れていると思います。

 

 犯人たちの復讐方法も、非常に胸がスカッとする見せ方をしてくれるなと。あの拷問シーンは最高でしたし、調子乗ってた最後の敵が策にハマってやられる下りの「ざまぁ」感も最高でした。しかもその伏線を自然に張ってある辺りもカタルシスがあります。終わり方も爽快なもので、総じて娯楽作として最高の作品でした。

 

 

 同じような「ナメてた相手が殺人マシーンでした」モノ①

inosuken.hatenablog.com

 

「ナメてた相手が殺人マシーンでした」モノその②

inosuken.hatenablog.com

 

 

我々の生を肯定し、誇りを与えてくれるフレディ・マーキュリーの物語【ボヘミアン・ラプソディ】感想

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78点

 

 

 11月に公開され、今なお尻上がりに興行を伸ばしているQUEENのボーカリストフレディ・マーキュリーの伝記映画。私のQUEENの知識は、『ジョジョの奇妙な冒険』にスタンド能力の名前で出てきたな程度の浅はかとすらいえないレベル。そんなQUEENに対して全くの無知である私が何故本作を観たのかといえば、それは単純に大ヒット中だからです。しかし、本作は、そんなQUEENに何の思い入れもない私ですら感動させてしまえるほどのパワーを持った作品でした。

 

 私が泣いた箇所は皆様と同じくラスト20分のライブ・エイドです。ここで、何故泣けたのかを考えてみると、それはこの20分までに「フレディの生き方」を存分に見せているからだと思います。

 

 映画はまだフレディが「ファルーク・バルサラ」だった時代に、ブライアン・メイロジャー・テイラーと出会うところから始まります。そこからQUEENを結成し、売れっ子バンドになっていく過程はめちゃくちゃテンポが良いです。確かに展開的に唐突だったりする箇所もありますが、そこもQUEENの楽曲の力で無理やり見せてしまっています。ここはQUEENの力の貢献が大きいですね。

 

 描かれるフレディは、自由に、そして心の赴くままに生きているように思えました。しかし、彼の人生は良いことばかりではなく、ゲイであることからメアリーとの関係が壊れていき、それとともにQUEENも一時活動休止、自身も破滅のギリギリまで追い込んでしまいます。そのどん底まで落ちた彼がQUEENに戻ってきて臨んだのがラストのライブ・エイドなのです。このライブ・エイドが泣ける理由は、1つは紆余曲折あったフレディが、自身のこれまでの人生の全てを以て、「これが自身の生きた証だ」と訴えかけている気がしたためです。

 

 そして2つ目は、楽曲の力。このライブ・エイドの最後で彼が歌うのが「We Are the Champions」なのです。これがこれまでのフレディの人生を見せられたおかげで、歌詞の意味が存分に伝わってきました。彼はここで、我々はチャンピオンだ。これまで生きてきた人間全てがチャンピオンなのだ、と言っています。これはフレディの人生もそうですが、そこにいた観客の、そして映画を観ている我々の人生そのものを肯定し、誇りを持たせてくれているような気がして、私は泣いてしまったのです。

 

 確かに、拙い箇所も多々あります。キャラクターの描き方だとか、普通の伝記映画から抜け出ていないストーリーなどです。ただ、彼らが発表した楽曲を聴いてみると、彼らが、フレディが我々に伝えたかったことを伝えることに本作は貢献できているのではないかと思います。だからこんなに大ヒットしているのだと思います。それがちゃんとできているだけで、本作は素晴らしい作品だと思います。

八幡の成長と決意【やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑬】感想

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 曖昧模糊とした「偽物」の関係よりも、何かが決定的に変わってしまう「本物」を求める奉仕部3人の物語。2011年から現在まで7年続いたこのシリーズも、本書から最終章とのこと。このシリーズは前半と後半で明らかにギアが変わったと思える点があります。この記事でそこを書こうかと思ったのですが、原作者も最終巻が近いと仰っているので、最後まで行ったらそこのところを書こうと思います。なので、この記事では純粋に13巻の感想を書こうと思います。書けると良いなー。

 

 13巻で描かれるのは12巻で問題になったプロム中止を阻止すべく動く雪ノ下雪乃比企谷八幡です。最終巻手前(?)なこともあって、本書ではこれまで八幡が培ってきた人脈や経験、そして関係が総動員された展開でした。その意味で、フィナーレを盛り上げる壮大な「溜め」にもなっていたと思います。

 

 総動員された中で一番注目したのは「関係」でした。1章から最終章まで八幡は個別のキャラクターと向き合うのですが(一部例外あり)、そこから彼が捻りだした言葉と行動が、彼と、そのキャラと積み上げてきた関係に対する彼なりの結論のように思え、さらに、その章の後に「そのキャラ視点」の挿話を入れることで、双方にとっての「関係」の結論を描いていたように思えました。だからこそ、「もうこのままではいられない」という「終焉」が見えてきて、キャラによっては胸が締め付けられる思いでした。

 

 さらに、これまで培ってきた「人脈」も総動員されている点も良い。といっても、協力してくれるのが由比ヶ浜を除けば材木座さんと戸塚しかいないのがさすがの八幡さん。ただ、材木座さんに関してはここ数巻、出ても一瞬だったり、しかも出てるくせに登場人物紹介に名前が載らないという謎の不遇っぷりだったので、本書での活躍(?)はちょっと嬉しい。それでも連れてくるのが2人というのもさすが材木座さん。期待を裏切らない。

 

 さて、つい材木座さんのことばかり書いてしまったけど、この人脈を使う中で、八幡の成長も垣間見れているのも良い点です。前までは誰にも頼らず、自分だけで事を進め、しかも「理由」が無ければ動けなかった彼が、初めて自らの意志で行動し、そして自ら頭を下げて協力を求めるあの姿勢は人間的な「成長」を感じてとても感慨深かったです。

 

 また、内容から離れて、文章についても。12巻では文章がラノベっぽくなく、むしろ表現がどんどん「一般小説」に近づいていると思いましたが、その反面、八幡さんお得意のパロディの入れ方が浮いてしまっていて、何だか無理しておちゃらけている感が出てしまい、パロディの方に気恥ずかしさを感じてしまいました。しかし、本書ではその浮いている感じもなく、自然と文章にパロディが馴染んでいて、かなり良いバランスになっていました。だからすいすい読めました。

 

 本書では、これまでとは明らかに違う点があります。それは舞台が学校なのにもかかわらず、奉仕部の部室がほとんど出てこない点。彼らの「曖昧な関係」の象徴であるあの部室を出さないことで、「もうあの頃に戻れない」点が強調されていたと思うし、ラストに出てきたときも、八幡と雪ノ下の「変わらない距離」を示し、そしてそこを後にするという「決別」の場所として使われていました。

 

 この「ずっと続くと思っていた」関係が終わるということは、モラトリアムの終わりです。青春モノを描く点において、この「モラトリアムの終焉」は最重要テーマです。青春とは、モラトリアム的な関係が終わり、決別することで成長するものだと思うからです。私は、本シリーズはここに真正面から挑んでいると思っていて、それ故にこのシリーズは「青春モノ」として素晴らしいと思うのです。まぁ、心の底からそう思えるのは、良い終わり方をしたらなのでしょうけど。だから頼むぞ、わたりん!

 

 

2018年夏アニメ感想⑧【はるかなレシーブ】

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 最初は不純な動機でした。夏に放送されるきらら枠で、題材はビーチバレー。想像するのはそりゃもちろん女の子の水着です。普通のアニメなら1クールに1回あるかないかのサービス回を、題材的に考えればほぼ毎回見られるのです。誰だって視聴しようという気になりますよ。このような気持ちで見始めたのですが、放送中の去る8月、私はとある映画を鑑賞します。『菊とギロチン』です。

 

 

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 これは関東大震災直後の日本を舞台に、実在の政治結社のギロチン社と女相撲を描いた作品です。変わった映画でしたが、面白かったです。これはどうでもいいか。この作品の中で、ギロチン社に属している東出昌大が、女相撲を見てこう言うのです。「何だ脱がねぇのか」と。相撲と言えば裸で、女がやるとなれば女の裸目当てで来る人間もいるでしょう。彼女たちは真剣に相撲をやっているのに、そこを見ようとせず、ただ自分の欲求を満たしたいがために相撲を見に来るのです。何て失礼な奴ら。しかし、私もこいつと同類だったのです。自らの欲求のために見ていたことに気付かされました。そのことが少しだけ申し訳なくなるくらい、本作は、直球の青春スポーツアニメだったのです。

 

 本作は東京から沖縄に引っ越してきた高身長の大空はるかが、ビーチバレーから背を向けているやや小さめな身長の女の子、比嘉かなたと出会うところから始まります。そして、全12話を通して、この2人が最高のパートナーとなる様子を描いていました。まだコンビとして完成していなかった彼女たちが徐々に距離を縮めていき、最終的に最も身近にいる「最高のペア」エクレアペアに勝利をおさめるという全体のまとめも上手い構成だなぁと思います。そして勝負の後も、勝った者の責任、負けた者の悔しさが入り混じり、それでも互いを認め合うという友情を描くという何とも爽やかな終わり方。清々しいまでにザ・王道です。

 

 試合シーンもとても良かったです。動きも良いし、皆戦略的に戦っているのも良いのですが、それぞれ相手チームの気持ちをコンパクトに纏めてくれている点が何より良いです。こうして相手にもドラマを持たせると、互いに背負っているものが浮き彫りになって、試合を見る目にも気持ちがこもってしまい、どちらも応援したくなるのです。そしてこの試合を重ねるごとに、はるかとかなたが信頼を積み重ねていくことがしっかりと分かるのです。まるで他のペアの気持ちも吸収していくように。

 

 また、本作はビーチバレーという競技をフルに活かしていると思っています。まずはコートです。前衛と後衛に分かれるわけですが、それはお互いがお互いを信頼していないとできません。だから、はるかなペアが強くなることがイコールで絆が深まっていることに繋がります。そしてネット。これが効果的に使われている箇所が何個かあって、具体的には鳴海との握手シーンですね。気持ちが断絶していた相手と心を通わせる演出に役立っていました。

 

 さらに上手いと思ったのは、カップリング問題についてですね。これはビーチバレーはその性質上、2人1組でやるわけですから、必然的にカップリングが出来るわけです。しかもそれがストーリーに直結している。これは上手い。気付いたときは舌を巻きました。でも、それでも青春スポーツアニメとしての面白さをしっかり担保しているあたり素晴らしいです。

原作を現代的に再構築した傑作【DEVILMAN cry baby】感想

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 【はじめに】

 永井豪の代表作を、Netflixが資本を提供して制作したアニメーション作品。監督は天才・湯浅政明。この組み合わせを見た時、「こりゃ凄いものができるな」という予感を強く抱き、これを見るためにNetflixに加入ました。ただ、視聴したのは2018年も終わりに近づいた今でした。これは何故かというと、楽しみにしていたくせに、見るのが怖かったからです。私は原作の『デビルマン』は昔に読んでいて、牧村美樹の最期には大変衝撃を受け、何ならトラウマも植え付けられました。『デビルマン』を完全アニメ化する場合、あのシーンは必要不可欠です。あのシーンをもう一度見るだけでも精神力を使うのに、本作の美樹は何か現代的に可愛くなってるし、アニメだから声も動きもつくのです。そして、監督は湯浅政明だし、配信は遠慮が要らないNetflixなので、あのシーンの衝撃は原作クラスであろうことは想像に難くありません。この理由から、私は本作を観るのを躊躇していたのですが、先日、遂に意を決し、覚悟を決めて視聴しました。

 

 個人的な感想を書けば、本作は傑作の部類に入ると思います。原作の『デビルマン』を現代的に再構築し、骨子は残したままきちんと「今」へのメッセージを持った作品にしていました。以下に詳細を書いていきます。

 

Netflixであることの意味】

 本作を見てまず感心したことが、「Netflix配信である」ことにちゃんと意味があり、「それだけ」で終わってない点。動画配信は、地上波ではできない表現ができます。それは主に暴力や性描写であり、地上波と差別化を図るためには、そこを強調するのが1つの手だと思います。ただ、生半可なところが作れば、それは無意味に過剰になっているだけなこともあります。しかし、本作の場合は、この規制の緩さが、『デビルマン』を描く上できちんと意味のあるものになっているのです。

 

 原作の『デビルマン』は、人間の本質的な暴力性を剥き出しにした作品でした。それは決してフィクションではなく、過去に人間が繰り返してきた歴史の再現です。「デビルマン狩り」は魔女狩りですし、先の大戦の隠喩にもなっています。原作は、人間は、時に悪魔にもなるのだということを克明に描いた作品でした。故に、『デビルマン』をアニメ化する場合、残虐な暴力や性の描写は必要不可欠なのです。

 

 TVでは黒塗りや不自然な湯気とかでごまかされるグロ、エロシーンですが、本作は規制のない動画配信なので、容赦のない暴力シーンが続きます。それは1話から全開で、人間を刺す、胴体が真っ二つになるは序の口、頭がもげる、大量の人間が轢き殺されて辺りが血の海、そして首チョンパ、といった具合です。しかし、起こっている事とは裏腹に、画面的には中々どうして見やすい。これは湯浅監督独特のグラフィカルな絵の影響が強いためだと思います。絵がリアル寄りではないため、グロさが中和されているのです。なので、グロいことが視聴のノイズになっていないのです。この辺のバランスは意図したかは分かりませんが、上手いなぁと思いました。

 

 このように、本作はきちんと「Netflixでしかできないこと」をやっています。しかもそれが『デビルマン』という名作を完全にアニメ化することに繋がっているのです。

 

【原作『デビルマン』と『DEVILMAN crybaby』】

 

・原作からアニメへの再構築

 次に、原作からアニメへの再構築について書いていきたいと思います。原作は単行本で全5巻です。たった5巻で人類滅亡まで描いているので、その密度は圧倒的です。無駄なシーンなど何1つありません。対して、本作はまさかの全10話。計算だと1巻2話という超ハイペースで進める必要があります。本作はここの圧縮とアニメ用の再構築が上手いなぁと思いました。

 

 原作の『デビルマン』はTVアニメと同時にスタートした作品でした。TVアニメの方は勧善懲悪のヒーローものでしたが、漫画の方は、ご存知の通り、永井豪らしいエログロがふんだんに盛り込まれ、人間が持つ暴力性を前面に押し出した壮大な作品となりました。しかし、それは最初からそうしようと思っていたわけではないらしいことが、永井豪の自伝的漫画『激マン!』に書かれています。これを読むと、永井豪先生は『デビルマン』に全精力を捧げ、どんどんアイディアを盛り込み、勢いで作り上げていったらしいのです。だからこそあのような他の追随を許さない圧倒的なエネルギーを持った作品になったのでしょう。しかし、それ故に唐突な展開も多々見受けられたのも事実です。

 

 本作はそのような勢いで作られた原作をオリジナル要素を織り交ぜつつ、かなり綺麗にまとめ上げています。そしてそれによってトラウマ要素もとんでもないことになってしまったのですが。

 

 色々あるのですが、私が印象深かったのは、カイムとシレーヌの下り。あの2人は『デビルマン』の中でも有名なデーモンで、明と読者のデーモン観を変えるきっかけになるのですが、出てきたのは1回で、カイムに関しては後付け感がありました。本作ではこの2人を早い段階から出し、カイムに関してはどれだけシレーヌを愛しているのか、そしてどれだけ無視され続けているのか、が描写されます。だからこそ、あの超有名なシーンで大泣きできます。原作と同じくらい泣きましたよ、私は。また、このシレーヌ戦を前半のハイライトに持ってくる構成も綺麗ですね。

 

 また、トラウマがより強化されているシーンもあります。ジンメンです。原作では明の「親友」サッちゃんが被害に遭い、ジンメンの能力的にトラウマとなりましたが、本作ではさらにキツくなっていて、何と吸収されるのは明の母親。しかもジンメンは父親です。ここに原作の本質的な部分が集約されていて、見ていて辛いながらも素晴らしいシーンでした。また、これが明が全てを失っていく転機となるあたりも見ていて辛い。

 

 また、原作にあった「エネルギー」に関してもそこは継承されている気がしています。というのも、湯浅監督は、これまでアニメーションを爆発させる作品を作ってきました。この爆発力は、永井先生のエネルギーとも共通していると思うのです。現に、作中の重要なシーンでは、原作から抜け出してきたかのようなパワーを感じることも多々ありました。

 

・2018年の『デビルマン

 このように、原作からは大分設定とストーリーは変わっています。しかし、本作の特筆すべきだと感じる点は、それでも、原作の本質を外していない点。しかもそれを現代的なものにアップデートしている点です。

 

 私は、原作で描かれていたのは「人類」そのものだったと思っています。人類はこれまでの歴史の中で暴力を繰り返し、先の2度の世界大戦で大量の死者を出し、大量殺戮兵器や虐殺を行ってしまいました。使い古された言葉ですが、「人間は何にだってなれる。悪魔にも天使にも」ということなのです。世界大戦は終わりましたが、今も世界のどこかでは紛争が起き、同じような殺戮が続いています。原作はこの人間の負の側面を克明に描き出し、読者にトラウマを植え付けました。

 

 本作ではそれが本質を残したまま現代的にアップデートされています。その最たるものは今、世界中で起こっている排外主義的な動きです。それに対抗するのは、不動明や美樹が持つ「善意」なのです。それが最もよく現れたのが9話。偏見から処刑を行う大衆と、それに対して人間の善意を信じ無抵抗で立つ明。そしてそれに被さる美樹の言葉。どこまでも真っ直ぐな善意に胸をうたれますが、それは大量の悪意に塗りつぶされます。ただ、そこにポツリポツリと現れるカミングアウトと人間の善意。それと同時に現れる、明の説得に応じる人間たち。大量の悪意の中にも、人間は善意を持つことができ、他者と分かり合えるということを画的に示した素晴らしいシーンで、私は何度目か分からない涙を流しました。ただ、そういった「人間の善意」のバトンを受け取った明が目にするのは美樹の生首という、考えうる限り最悪の結末。そしてサブタイトルである言葉を叫ぶのです。「地獄に落ちろ、人間ども」と。デーモンが突き入る隙は、現代の我々にも十分あるのです。

 

 この人間が持つ負の側面とそれに抗う善意を剥き出しにした展開は、原作が持っていたテイストそのままだと思います。そしてそれを描く上で効果的に使われたのが、「泣く」ことと「陸上」です。

 

 相手に共感し、「泣く」ことは実に人間らしい行為です。明は心が優しい「泣き虫」として描かれます。明は終始泣いていますが、本作では結構重要なところで「泣く」シーンが出てきます。そしてそれはデーモンも同様です。「泣く」ことこそ、人間が人間たらしめていると言っているようです。明に対して、了はおよそ人間味のないキャラとして描かれます。彼は決して泣きません。しかし、最後まで陸上の「バトン」を繋いでいった結果、彼は涙を流します。「人間味」から最も遠かった彼が作中1の「人間味」のある姿を見せるラストには、人間に対する一抹の希望を感じさせます。そして、これを伝えるための陸上だったのですね。

 

 また、陸上に関して書けば、走っている姿が何だか清潔な感じがして、この人間の剥きだしにされたドロドロしたものの中で彼らが純粋な存在として際立っている気がしてきます。

 

【おわりに】

 久しぶりにそこそこ長い記事を書きました。それくらい本作には語りたいことがありました。正直、まだ足りないくらいです。とにかく本作は、あの名作『デビルマン』を現代に通じるように骨子を残して再構築した作品でした。もっと多くの人に見てほしいなぁと思います。

『Dr.スランプ』みたいなユルさだけが残った映画【ドラゴンボールZ 神と神】感想

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40点

 

 

 2013年に公開された、シリーズとしては17年振りの劇場版。当時は『ドラゴンボール改』終了から2年経っていたにもかかわらず、最終興行収入が約30億という大ヒットを記録し、『ドラゴンボール』の人気を改めて示しました。私は『ドラゴンボール』に関しては、一応は原作は全巻読んだし、過去の劇場版もだいたいは観ています。ちなみにTVは見たり見なかったりです。しかし、本作の公開当時は映画館まで観に行きませんでした。私は『ONE PIECE』世代であり、『ドラゴンボール』にはそれほど熱中していなかったためです。

 

 そんなほどほどに「知ってる」程度の人間である私が、何故公開時観なかった本作を観たのかというと、新作に備えるため。いい機会だと思ったので鑑賞しました。

 

 結論から書くと、動画配信で観てよかったと思いました。おそらく、映画館まで行って金払って観てたら私の心は中々に荒れていたでしょう。それくらい詰まらなかった。

 

 何故つまらないのか。思うに、それは緊張感が皆無だから。『ドラゴンボール』シリーズは殆ど様式美の世界だと思っていて、決まった「型」があります。すなわち、強い奴が出てくる→Z戦士が戦う→悟空以外はやられる→敵の圧倒的なパワーで悟空ピンチ→覚醒した悟空が逆転、です。流れはほとんどがこれです。『ONE PIECE』もだいたい同じだろと思われるかもしれませんが、あちらは少なくとも「成長」とかドラマがあるのですよね。しかし、『ドラゴンボール』は尺の関係か、一部の例外を除いて、こうしたドラマ性みたいなものは排除されているのです。

 

 それでも面白かったのは、私が子供で、純粋な心を持っていたからか、緊張感があったから。この緊張感というのは、「敵の強さ」と残虐さ。クウラにしてもターレスにしてもブロリーにしてもガーリックjrにしても人造人間たちにしても、圧倒的な強さと残虐さを兼ね備えていて、故に「これどうやって倒すんだよ…」と絶望を感じました。

 

 本作にはこう言った緊張感が皆無です。敵のビルスは魅力的で、次元が違う強さを持っていますが、本編がゆる~い感じなのです。一応、ビルス超サイヤ人ゴッドを探すというストーリーがあるのですが、行わていることはほとんどが茶番。しかも大筋に何の関係もない。後半になって唐突に本筋に入るのですが、そこでの超サイヤ人ゴッド覚醒までの流れも「何だよそれ」と突っ込みたくなるレベルの雑さ。結構簡単になれるじゃん、と思ってしまいます。まぁこの雑さは前からですけど。

 

 これでアクションが凄ければまだいいのですが、そこはさすが東映アニメーションTVシリーズばりの平凡なものを見せてくれます。しかもアクション以外のところも口パク紙芝居ばっかだし。本当、東映ってクオリティの落差が激しいなぁと。

 

 本作でよかったのは、上述の理由と矛盾するようですが、ビルスです。山寺宏一さんの演技力も相まって、かなり魅力的なキャラになっていて、彼とウイスの掛け合いは観ていて面白かったです。後はベジータの「よくも俺のブルマを!」ですね。あそこが一番テンション上がりました。

熱狂の時代を生きた人々【止められるか、俺たちを】感想

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78点

 

 

 『止められるか、俺たちを』。これを読むと全盛期の若松プロのエネルギーに溢れる姿を描いた伝記映画かと思われます。しかし、実際に観てみると、それほどの勢いはなく、どちらかと言えば、白石監督から見た憧れ込みの「若松プロ」を描いた作品だったと思います。

 

 1969年から1971年。世の中がうねりをあげていた激動の時代。かえって、日本映画は黄金期を過ぎ、斜陽の時代を迎えていました。そのようなときに出てきたのがピンク映画であり、若松プロはそのようなピンク映画を制作していた代表的な会社です。ただ、当時のピンク映画とは、一定のエロさえあればどのような内容でもやっていいという映画の無法地帯でした。故に、そこで力をつけ、瀬々敬久周防正行など、今では日本を代表する存在になった人もいます。

 

 若松プロも例外ではなく、梁山泊よろしく日本映画界に優秀な人材を輩出しました。本作はそのような若松プロが爆走していた時代を描きます。

 

 本作の特異な点は、吉積めぐみという実在の人物に焦点を当て、「彼女から見た若松プロ」の話にしている点です。そしてその視点は、監督である白石和彌氏と重なります。故に、本作で映される若松プロそのものにかなり憧れが入っていると思います。そしてこの構造は映画の内容にマッチしています。

 

 本作は「若松プロの伝記映画」の側面もありますが、それ以上に吉積めぐみさんの青春映画でもあるのです。彼女が映画の世界に憧れて入り、そこで才能の壁にぶつかって、それでも諦められなくてもがくさまを描きます。そして上述のように、吉積めぐみさんは白石監督であるので、彼が当時抱えていたであろう葛藤も伝わってきます。映画秘宝のインタビューでも昔の葛藤について語ってらっしゃいました。

 

 そして、もう1つ憧れが入っている部分があります。それはあの時代の勢いです。劇中で若松孝二は「ぶっ壊してやりますよ」と言っていました。映画の中に制作者の強い主張があり、映画が時代を変えることができたかもしれないあの時代、そしてその熱量への強い憧れを感じます。

 

 別に「あの時代に戻りたい」と監督は思っているわけではないと思います。ただ、私はこの映画から、白石監督の「この熱を受け継がなければならない」という想いを感じました。若松孝二の弟子である彼の日本映画への責任感ですね。

 

 「若松プロの無軌道な姿を描く伝記映画」を描いた作品だとすると微妙かもしれませんが、「監督の憧れの具現化」として観ると面白い作品でした。