95点
2020年6月。『Q』から実に8年、『序』から数えると実に13年の歳月を経て、遂に『エヴァンゲリヲン新劇場版』が完結する・・・はずでした。皆さんご存知の通り、新型コロナウイルスの影響で公開が延期され、再び我々エヴァファンはエヴァへ飢えを感じるようになりました。私も『エヴァ』には衝撃を受けたクチで、もちろん『シン・エヴァ』も観るつもりでした。なので、その復習として、TVシリーズ、『DEATH(TRUE)2』、そしてこの旧劇を鑑賞した次第です。本当はTVシリーズの感想も書きたかったのですが、十数年ぶりに見返してみると、中3のときには気付かなかった驚異的な情報量に圧倒され、とても全体を2000~3000字で書けない(というか、1話ごとにこれくらい必要)と思い断念。旧劇だけでもと思い、この記事を書くことにしました。
【第25話「AIR」感想】
TVアニメ第弐拾五話「終わる世界」をベースに、「終わる世界」では排除されていたドラマとアクションを加味してリメイク(?)した作品。つまりはひたすら補完された世界での登場人物のモノローグばかり描かれていた「終わる世界」の「表面」の話。
TVシリーズは第3使徒サキエルから第17使徒ダブリス(=渚カヲル)までの戦いを描いていましたが、全ての使徒を倒した後の最後の敵はやはり人間(=18番目の使徒)。本作では陸上自衛隊とNERVの戦い(というより、一方的な虐殺)が苛烈な死を以て描かれます。このNERVの人間を根こそぎ殺すという描写には、私は2つの見方できると思います。1つは「エヴァ」を作ることに疲れた庵野監督がその怨念を「お前らの好きだったもの、全部ぶっ殺してやるよ!」とばかりにぶつけたもの、2つ目はTVシリーズで描かれた「ディスコミュニケーションの極致」としての虐殺です。劇中では問答無用にNERVの人間が殺されていきますから。
これは互いを拒絶しあった使徒ととの戦いと同じ光景だと思います。人間だとより生々しくなるだけで、描かれていることはこれまでの「対使徒戦」と同じなのです。碇シンジは劇中、何度か「何で戦うんだろ」と疑問を呈していましたが、上の大人たちは「襲ってくるから戦う」と使徒を拒絶し、シンジらチルドレン達を戦わせ続けました。「相手のことを知ろうともせず、邪魔だから攻撃する」この点で私は劇場版の虐殺はこれまでの使徒との戦いと同じだと思うのです。「戦争は自衛から始まる」とは森達也さんの著作にもあった言葉ですけど、本作で描かれた使徒との戦いはまさに「ディスコミュニケーションの果て」としての戦闘だったのです。「新世紀エヴァンゲリオン」はコミュニケーションの話でしたが、それがここでも立ち上がってくるのです。
この「コミュニケーション」というテーマにおいて、1人、前向きな結論を出したキャラクターがいます。葛城ミサトです。彼女は、TVシリーズではおどけた明るいお姉さんキャラを作りながらも、結局は他のキャラと同じで、その姿は人と上手くコミュニケーションをとるための処世術でしかありませんでした。その点は「終わる世界」で追及されていました。しかし、本作で彼女は、シンジに対し、「他人だからなんだ」と一喝。本当の意味でシンジと向き合おうとします。他人だろうが真剣に相手に向き合えば関係は結べる。これは「新世紀エヴァンゲリオン」という作品の1つの結論だと思います。
また、本作において素晴らしい点は、何と言ってもアクション。「ママ」の存在を感じ取ったアスカが弐号機を覚醒させ、陸上自衛隊、そして量産型エヴァと繰り広げる闘いは純粋に素晴らしい。それまで一方的にNERVが陸自に虐殺されるシーンが続いていたため、このシーンにはちょっとしたカタルシスすらあります。
また、これはこの「AIR」だけでなく、「まこころを、君に」にも言えることなのですが、とにかくファンが「見たくないもの」を見せてくる。アスカの最後もそうですし、「まごころを、君に」の綾波レイもそうですし、上述のNERV虐殺シーンもそうだし、シンジがずっと蚊帳の外で何もしないのも多分そう。これも庵野監督の呪詛の念を感じます。まぁこの点は「エヴァ」という作品がポスト・ロボットアニメ的な作品だからというのもありますが。
ラストで弐号機の無残な姿を見たシンジは絶叫、遂に精神崩壊寸前まで行きます。その彼が人類の未来を背負い、結論を出すのは次回、「まごころを、君に」になります。
【第26話「まごころを、君に」感想】
陸自のNERV虐殺、エヴァ初号機の覚醒、シンジの絶望を見せた「AIR」から一転、もう1つの最終話である本作は、シンジの、そして庵野監督の自意識と他人への自問自答を描きます。
本作を観返してようやく理解したのは、「新世紀エヴァンゲリオン」という作品はコミュニケーションの作品だという点です。人間ドラマもそうでしたが、使徒との戦いに関してもそうでした。ミサトの解説にもありましたが、使徒とはアダムから生まれたもう1つの可能性であり、人間とは拒絶し合う関係でした。その「心の壁」を可視化したのがATフィールドだったのです。これは第弐拾四話でカヲル君が言ってました。
このATフィールドの設定は、作品の根幹にまで通じる重要な要素です。ATフィールドは使徒との戦いで絶対防御のバリア的な役割を果たしましたけど、本作では綾波レイの口から、ATフィールドがあるから人は人の形を保てると言及されます。つまり、使徒との戦いのように、人と人が触れ合うと互いを傷つける。しかし、その拒絶の壁があるからこそ、他者が生まれ、自己を認識できる。それが人間であり、不完全な存在である理由でした。だからゼーレは人類を単一の個体として進化させ、この「欠けた心」を補完すべく人類補完計画を進めていたのです。その補完された世界は人と人の境界が曖昧であり、「個」がない世界。誰も傷つかないけど、誰もいない世界でした。「自分を傷つける他者」に脅えていたシンジは、この世界にて「他者がいなければ自己はいない」という実存的な答えに辿り着き、「他者がいる世界」を望みます。
この世界において、「他者」の代表がアスカでした。補完された世界の中で、ずっとシンジを拒絶してきた人物であり、同時にシンジが最もすがった人物でした。だからラストで2人だけで海岸に打ち上げられたのだと思います。しかし、その後のシンジの行動は、また「傷つける」ことでした。そしてアスカはシンジの頬に手を添え(若干、優しげに見える)、「気持ち悪い」と言い放つのです。これは個人の解釈になりますが、これは「拒絶」と少しだけの優しさがあったと思います。つまり、「人間は互いを拒絶し、傷つけるしかないけど、それでも完全に自分を嫌いにはならない」的な意味なのかなと。そしてこれは庵野監督自身の所信表明でもあると思います。シンジの精神世界で、レイとカヲルは言いました。「人は分かり合えるかもしれない」と。これが第26話、そして「新世紀エヴァンゲリオン」という作品のテーマ的な帰結だと思います。だよね?
また、このシンジの葛藤を観ているともう1つ見えてくるものがあります。それはアンチ・オタク的な考えです。本作の実写パートで、観客を映し、「気持ち、いいの?」と字幕が流れます。そして、「僕の現実はどこ?」と聞いたシンジにレイは言います。「それは、夢の終わりよ」と。要は「気持ちのいいアニメの世界に籠ってばっかいないで現実を生きろ」ってことです。いい年して学校という安全な空間で敵のいない世界を満喫している奴らを描いたアニメばっかり見ている私のような人間には耳が痛い話です。
ただこれ、現代の世界に目をやると、アニメだけではなく、世界中でいろんな人に言えることだとも思います。ネットが本格的に普及し、SNSが出てきて、自分に都合のいい事実だけを切り張りして世界を見られるようになった今の世界は、本作で庵野監督が言った「気持ちのいい世界」そのものです。Twitterでは今でもこの独自の気持ちのいい世界に浸った人同士が罵詈雑言を言いまくり、対立しています(まぁ、実はこれ、私にも言えるんですけど)。そこでは「個」の意見よりも全体の意見というか、ムードみたいなものが優先され、「補完された世界」を連想させますってのは言いすぎでしょうかね。
シンジは他者の恐怖を抱えながらも、もう1度他者と向き合うことを選び、「現実」に帰ってきました。それは「母親からの自立」でもあります。シンジは最初から最後まで、そしてこれからも母親に見守られながら生きていきます。しかし、エヴァ初号機(=母親)の胎内で戦うのではなく、母親と別れ(母に、さようなら)、自立した人間として立つことを選びます。この母との決別をしたという点では、シンジはゲンドウ(=父)を越えたのかもしれません。
以上のように、本作は今観返しても十分刺激的で、満足のいくものでした。私ももう少し向き合わないとな、なんて思ってしまうのは、やはり「気持ち悪い」ですね。
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『シン』の感想です。