暇人の感想日記

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26年の全てを終わらせた映画【シン・エヴァンゲリオン劇場版】のシン・感想

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100点
 
 
 『シン・エヴァ』という作品は、正真正銘、「エヴァンゲリオン」という作品を「終わらせる」作品だった。ご存知の通り、「新世紀エヴァンゲリオン」という作品は、「終わらない」作品だった。TVシリーズが制作が間に合わずに抽象的な自己啓発セミナーになって終わり、旧劇場版も1回完成途中で公開され「魂のルフラン」が流れ、ようやく終わったと思った『旧劇』もひたすらにシンジ=庵野秀明監督が自身の心情を吐露するだけで、大筋は描いてみせたけど着地点には様々な解釈があり得ると解され、考察が盛んに行われた。らしい。押井守監督は「エヴァ」という作品を「ファンが考察することで永遠に終わらない作品」と評したそうだが、「終わり」を明確に描かないからこそ考察が盛んになされ、それ故にもっと終わらなくなる、という袋小路に陥ってしまった作品が、「新世紀エヴァンゲリオン」という作品なのであります。
 
 だからこそ、本作は26年間積み上げられてきた「エヴァ」というアニメーションそのものを清算する作品となったのです。作品の核となっていた「父殺し」はシンジとゲンドウがようやく対峙し、お互いにようやくコミュニケーションをとることで達成されますし、また、父=神を殺し、人類の可能性を示すことでも達成がなされます。そして、ラストでシンジが選択した、「エヴァのいない世界」とは、「エヴァ」以降、大きく変換したアニメーション業界そのものの清算と捉えることができます。「エヴァ」は製作委員会体制をとり、それによって大きな成功を収めた作品ですが、それによって、よりアニメーション業界の労働環境が悪化してしまったのは有名な話です。「エヴァンゲリオン」を庵野監督の私小説とするならば、『:Q』において、ニアサードインパクトによってシンジが滅ぼしかけた世界とは、まさしくアニメーション業界のことであり、そこからの世界の復旧は、庵野監督のアニメーション業界を何とかして修復したい、しなければならないという意志の表れのように思えました。

 

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に

  • 発売日: 2019/08/01
  • メディア: Prime Video
 

 

 「エヴァが生み出したもの」の清算としては、「セカイ系」へのアンサーともとれる内容になっている点も面白いです。「セカイ系」というのは「エヴァ」以降、爆発的に増えた、「君と僕」のみの閉じた世界の悩みが世界の命運に直結するという奴で、その代表的な存在が新海誠監督です。庵野監督はことある毎に「現実の社会との接続」を切望し、望んでいた方です。シンジというキャラクターは内に引きこもりがちだと言われますが、その実は人間のことが好きであり、「ハリネズミのジレンマ」を起こしてしまいます。『旧劇』でもシンジは一旦は「だからみんな死んでしまえばいいのに・・・」と他者を拒絶しますが、最終的には「他者がいるからこそ自分は自分でいられる」という実存的な答えに辿り着きます。だから「エヴァ」って、元々アンチ・セカイ系的な考えを有しているわけですが、『新劇場版:Q』はそれがより先鋭化されていて、『:破』であれだけ盛り上げてみせたラストを裏切ってみせ、徹底的にシンジを自己中心的な存在として断罪してみせます。そこには、「個人の意志で世界をどうにかしようとした」ことに対し、徹底して罰を与える姿勢が見えます。ちなみに、この姿勢へアンサーをさらに返して見せたのが『天気の子』でした。
 
 以上の点で、更に書いておきたいのが、「手」です。「エヴァンゲリオン」シリーズでは、「手」は非常に重要で、事ある毎に印象的な使われ方をします。ある時は誰かと手を繋ぎ、あるときは誰かの首を絞め、あるときは自慰行為をし、ある時は誰かを助けます。このように、「手」とは人間の関係性を象徴するものとして描かれています。誰かを傷つけ、誰かを助けるのは、いつも「手」なのです。
 
 本作では、「手」が異様なくらい多く出てきます。面白いのは、そのほとんどが、正の意味合いで使われている事です。人と人が繋がるため、シンジがゲンドウと繋がるため、マリがシンジを導こうとするとき。ここに、庵野監督の人間関係の捉え方の変化が見えます。つまり、『旧劇』で行われていたような問答は、もはや庵野監督には不要なものだということです。
 
 『:破』において、「シンジは成長した」という方が多いのですが、確かに成長はしましたが、私にはあれはアスカの言う通り、「ガキ」なんだと思います。何故かというと、ゲンドウと同じだからです。ゲンドウはユイに会うために人類全体を巻き込んだとんでもない男ですが、『:破』におけるシンジも、レイを助けるために「世界がどうなったっていい!!」と言ってみせたことを忘れてはいけません。ゲンドウと一体何が違うのか。
 碇ゲンドウというキャラは、物語が始まった当初こそはその謎に満ちた存在感によって大物感を出していた男ですが、真相が明らかになると、非常に矮小な男だと判明します。本作ではその矮小さを隠すことなく曝け出しています。ゲンドウこそ、外の世界を拒絶し、いない存在を追い求め続けた、本作最大の「ガキ」なのだと思います。『:破』におけるシンジは、一度はこのゲンドウと同じになったのです。
 
 だからこそ、シンジは1回は廃人同然になり、第三村での生活で再生していくのです。この「再生」こそが非常に大切で、ここでの暮らしによってシンジは「自分のため」ではなくて、「誰かのため」にエヴァに乗ることに目覚めるのです。思えば、シンジはTVシリーズからずっと、「自分のため」にエヴァに乗ってきましたし、それ以外では「誰かに言われて」乗ってきました。唯一『:破』のラストで「綾波を助ける」という意志を持って乗った以外は、常に受動的で、若しくは「自己の存在理由のため」に乗っていました。しかし、第三村にて成長し、「大人」になった元クラスメイトと交流して、自分の身勝手ではない、他者の想いを背負い、行動できるような、真の意味での「大人」として目覚めていきます。ここがゲンドウとの決定的な差でした。ゲンドウには理解者が冬月しかいませんでしたが、シンジには多くの友がいました。彼らとの交流があったからこそなのです。ここにも、「人と繋がる」という「エヴァ」のテーマが見えてきます。
 
 そしてシンジはゲンドウとの対話の末に父を殺し(=乗り越え)ます。更に、補完計画の中心となり、ゲンドウを始めとした、各キャラの心を補完し、「卒業」させます。それは過去のシリーズではできなかった、各キャラの救済であり、同時に清算でもありました。こうして、全ての清算を終えたシンジがやって来たのは「エヴァのいない世界(現実)」。そして繰り返されるTV第1話の冒頭、そこで目の前にいたのはマリでした。これまでは綾波(=母親)に見護られていたシンジですが、「エヴァのいない世界」を選択したことで、「虚構」であった世界から決別します(ちなみに、シンジの反対側のホームにレイとカヲルとアスカがいる)。そこでシンジは電車には乗らずにマリと一緒に走り出します。そこは現実とアニメが混ざり合った世界であり、もはや母親も、父親もいない世界。「個」としてとりあえず自立したシンジ(=庵野秀明)は、その世界で生きてゆくのでしょう。これはつまり、庵野監督の「大人宣言」であり、「エヴァからの卒業」なのだと思います。そして同時に、「何度でも助けに来てくれてありがとう」という、妻・モヨ子さんへの感謝の言葉でもあるのだと思います。
 
 以上のように、本作はあらゆる意味で「エヴァンゲリオン」という作品を「終わらせて」みせました。それしかないという意見もあるとは思いますが、これに辿り着いただけで本作には価値がありますし、中3からずっと追いかけてきた身としては、完結には感無量です。庵野監督、おめでとう。
 

 

旧劇の感想です。

inosuken.hatenablog.com

 

 『:破』へのアンサー作品。

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 結末が似ている。

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