暇人の感想日記

映画、アニメ、本などの感想をつらつらと書くブログです。更新は不定期です。

引き裂かれた者たちの友情【工作 黒金星と呼ばれた男】感想

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94点

 

 

 過去に韓国に実在したスパイ、黒金星を題材にしたスパイ映画。監督は『群盗』、『悪いやつら』のユン・ジョンビン。映画秘宝にて絶賛レビューが載っていたので興味が湧き、公開当初には間に合わなかったものの、セカンド上映にて鑑賞してきました。

 

 とても胸アツな映画でした。劇中で描かれていることが全て真実であるという保証はないので、ある程度はフィクションとして割り切る必要があります。しかし、そこに込められた南北の朝鮮半島統一への想いがビンビンに伝わってきて、しかもそれをエンタメとして面白く観せてしまえる手腕に感服しました。

 

 韓国映画と聞いて想像するのは、バイオレンスに満ちた鬼気迫る内容。しかし本作では、バイオレンスというか、アクションシーンすらほぼなく、役者の演技とカメラ、モノローグで見せていきます。スパイものの醍醐味である「バレる、バレない」のサスペンスの緊張感はさすがだし、目当ての対象に近づくための御膳立ても丁寧です。

 

 

 本作でメインになるのは2人の人間。主人公、黒金星ことパク・ソギョン(ファン・ジョンミン)とリ所長(イ・ソンミン)。本作は南北統一という政治的なものというよりも、より前面に出ているのはこの2人の絆とロマンスです。そしてそれが、引き裂かれた南と北の国民を代表している存在です。

 

 パクもリ所長も祖国のために尽力していました。特にリ所長に関しては、南北の統一を本気で考えていて、スパイであるパクの心を動かしていきます。しかし、中盤で、パクは韓国と北朝鮮の間の陰謀を知ります(この陰謀もどこまで本当かは不明のよう)。それは韓国の選挙で、保守派を勝たせるために北朝鮮に軍事威嚇をしてもらうというもの。自分が命を懸けて核兵器の調査をしているのに、国家はそんなことお構いなしに軍事的緊張を煽ることをしている。この裏切りを知ったパクは、リ所長と共に陰謀の阻止を図ります。

 

 こうして観ると、本作は超王道のスパイ映画であり、2人の男の絆の映画なのです。そしてそれが、本作の南北統一というメッセージにも被っている。それが一番端的かつ印象的に示されるのがラストの再会シーン。パクとリ所長の事業が完成し、そのイベントでのこと。半島の垂れ幕をバックに、南と北を代表する2人が、存在を確かめ合って歩み寄る。そしてそれを最後まで映さずに暗転するラスト。統一への希望が感じられ、完璧でした。

 

そうだったのか! 朝鮮半島

そうだったのか! 朝鮮半島

 

 

 加えて、本作はバランス感覚も素晴らしいです。北朝鮮と韓国、どちらか一方が悪い、という感じに描かず、問題なのは統一を望んでいる国民の意志に対して、一時の権力欲のためにその意思に反する権力なのだ、という内容にしています。そしてそれに対して、民主的な手続きが勝利する。この、本作のような歩みが昨年の「板門店宣言」に繋がったのかと思うと、非常に胸アツなのです。

 

 

本作の5年前。

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 本作の12年前。

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驚異的な色彩美で描く、影の物語【SHADOW/影武者】感想

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65点

 

 

 最初は観るつもりはありませんでした。では何故観ようと思ったのかと言えば、私が購読している映画秘宝のレビューで、「チャン・イーモウ復活作」と書かれていたから。世界的な巨匠と言われていながら、私はチャン・イーモウ作品は観たことがなかったので、鑑賞しました。

 

 私の記憶が正しければ、チャン・イーモウの監督前作は『グレート・ウォール』だったと思います。私は観ていないのですが、評判と映画の予告を観る限りではたいそう愉快なバカ映画感を醸し出していました。しかし、本作はそのようなバカ映画感はほとんどなく、墨のような、非常に美しい色彩の映像美で綴られる立派な文芸映画でした。

 

 時は戦国時代。沛(ペイ)国は大国、炎と休戦協定を結ぶ代わりに、領土の一部を明け渡すという平和ながらも屈辱的な日々を送っていた。本作は、その炎に奪われた領土奪還を目指す都督と、その影武者の物語です。

 

 

 物語は大きく3つのパートに分かれています。主人公、都督とその妻、そしてその影武者が着々と準備を進める第1部、領土奪還を描く第2部、そして影武者が「本物」になる第3部です。

 

 鬼門は第1部です。非常にゆったりとしたテンポで進み、音楽も単調なので、正直言ってしまえば、退屈で、眠くなるかもしれません。しかし、それはただ単に退屈なのではなく、観るべき箇所はいくつもあります。まずはその色彩美です。これは本作全体に言えることなのですが、終始画面の色が白と黒なのです。これは本作が白黒映画と言うわけではなく、美術とか照明の力なのではないかと思います。そしてこの色彩には意味があり、本作のテーマである「光と影」や「陰と陽」を表しているのでしょう。さらには役者の所作。1つ1つが丁寧でした。そして最後はCGを使わない生身の戦闘訓練。スローモーションを駆使したもので、緩急がついていて見応えがあります。こんなとこです。

 

 この緩慢とした空気は、第2部でひっくり返ります。2部ではうって変わり、傘を駆使した自身の身を一切顧みないトンデモ戦法を以て血みどろの合戦シーンを見せてくれるのです。ここには突っ込みどころが満載で、皆が傘を取り出すシーンでは正直言って爆笑してしまったのですが、砦の攻略戦は、黒澤明の『七人の侍』を思い出させる日本の昔ながらの時代劇のような趣があり、大変面白かったです。

 

 第3部では謀略がありながらも、「影」である主人公が「影」を止めることで映画は幕を閉じます。それは利用されるだけだった存在が何かを手に入れるまでの話であるし、同時に都督が自分の闇に呑まれる話でもあったのかなぁとも思います。とにもかくにも、色彩は美しかったです。まぁ、お勧めするかどうかと言われれば、多分しないです。つまらなくはないですが。

 

 

同じく映像美映画。

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 黒澤時代劇。

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神と共に、少年を見守る映画【僕はイエス様が嫌い】感想

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76点 

 

 

 若干22歳の方が監督した作品。本作を知ったのはCSの番組でした。気になったのでHPを見てみればそうそうたる方々から推薦されており、「時間があったら鑑賞するか枠」に入れていました。そして去る8月の某日、時間ができたので鑑賞してきた次第です。

 

 本作には明解なストーリーはありません。東京から雪深い地方にあるミッション系の小学校に転向してきた少年、ユラをずっと、静かに映していくだけです。このユラを捉えた撮影が丁寧だと感じました。スタンダードサイズ、ワンシーン・ワンショットで撮られており、カメラはほとんど動きません。それによって監督の「こう撮る」というような明解な意思を感じさせます。カメラはユラの一挙一動をじっくりと映し、それが本作のホームビデオ感を出していて、ユラという少年の観察映画であることを印象付けています。そして、後述するように、この「観察する」ことが、本作のテーマとも密接にリンクしてくるのです。

 

 本作のテーマは、2017年に公開されたマーティン・スコセッシ監督作『沈黙-サイレンス-』と同じで、「神」についてです。ユラは突如出現した「小さなイエス様」にお願いして、友人を得ます。そこから中盤までは彼は友人と楽しい時を過ごします。しかし、その楽しい時間は、突然終了するのです。この時、いきなりフッと暗転するのが非常に不吉な印象を与えます。「楽しい時間は終わり」とでも言うように。

 

 

 とある不幸が起こってしまった後は、陰鬱な雰囲気が続きます。その不幸と苦しみに対して、作中のキリスト教徒の方々の「祈り」が実に虚しく見えてきます。祈っても、神は救ってくれないからです。それは「小さなイエス」も同じで、ユラの祈りを聞き入れてくれません。

 

 では、神は何をしているのか?それはラストで明示されます。ユラが障子を開け、「向こう側」を見た瞬間、カメラがどんどん上がっていくアレです。はためいているものを見れば、それがイエス様だということは明白。つまり、はっきりと「イエス視点」でユラたちが映されるのです。ここまで観ると、本作の撮影手法の意図が分かってきます。劇中で、カメラは常にユラを捉えていました。本作では、カメラの視点=神の視点=観客の視点です。つまり、観客はイエス様と視点を同じくしており、観客はイエス様よろしくユラを見守っている作りになっているのです。そういう意味では、本作は「観察映画」と命名してもいいのかもしれません。総じて、興味深い映画でした。

 

 

同じく、低予算作品。

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 是枝監督作品。

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世界が持つ二面性【アス】感想 ※ネタバレあり

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93点

 

 

 前作『ゲット・アウト』が低予算ながらサプライズ・ヒットを飛ばし、更にはアカデミー賞脚本賞を獲得してみせた新進気鋭の監督、ジョーダン・ピール。今や映画界で最も注目されているであろう彼の、監督第2作です。私は前作『ゲット・アウト』は観ていて、大変楽しめましたし、こういう才能ある監督の作品をリアルタイムで追っていけることは今に生きている人間の特権だろうと思ったので、今回鑑賞した次第です。

 

 鑑賞してみると、後半は前作にもあったトンデモ展開が世界規模で繰り広げられるので、そこが気になると微妙な感じになります。しかし、前半のホラー展開は完璧であり、後半のトンデモも作品のメッセージの具現化として受け入れることができなくもないので、私は総合的には大変楽しめました。

 

 

 序盤からもうセンス抜群で最高です。冒頭は幸せな家庭を築いているウィルソン一家が映されます。そこからは、彼らの幸せな日常が続きます。それは一点の曇りもない理想の家庭です。しかし、そこには終始、どこか落ち着かない不穏な空気が漂っています。アデレードは常に「何か」に脅えているのです。そしてその不穏な空気と恐怖が「自分たち自身」として現れ、現実となってしまったとき、最悪の悪夢が襲います。家に押し入られてからの展開は若干『ファニー・ゲーム』っぽい感じです。

 

 ミヒャエル・ハネケは、『ファニー・ゲーム』に関して、「憤慨させるために作った」と言っています。確かに、家にいきなり見知らぬ人間が押し入ってきて、支配し、暴力を振るうという展開は、誰もが恐怖している事です。監督のジョーダン・ピールは、裕福な家庭に生まれながらも、幼い頃は「自分と同じ顔を持つ人間に生活を乗っ取られるのではないか?」という恐怖を常に感じていたと言います。本作はその恐怖に加えて、それを行うのが「自分とそっくり」なドッペルゲンガーであるという不気味さまで加わっているわけです。しかも撮影監督はM・ナイト・シャマラン、デビット・ロバート・ミッチェル作品を手掛けたマイケル・ジオラキス。これで怖くないわけはない。

 

 このドッペルゲンガーが襲ってくるというストーリーには、もちろん監督の意図が表れています。それは作中で何度か示される二面性。具体的には、貧困と人間、そしてアメリカという巨大国家です。

 

ファニーゲーム U.S.A. [DVD]

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 ドッペルゲンガー達は、裕福な自分たちが、「貧困になった場合」の存在であり、「今、裕福な暮らしをしている自分たちがいる一方で、貧困にあえいでいる人たちがいる」という二面性を象徴する存在でもあります。冒頭に映されるのは、TVに流れるチャリティーイベント、「ハンズ・アクロス・アメリカ」です。ウィルソン一家のドッペルゲンガー達は、このイベントよろしく、手を繋いで現れます。それはまるで、「自分たちを救ってくれなかった」裕福な人間達への復讐の意志表示のようです。こうして観ると、本作は、「持たざる者たち」として仕組まれた人間が、「持てる者」へ復讐する話と言えます。

 

 このような「乗っ取り」に対して、ウィルソン一家は血みどろの戦いを繰り広げます。この点は実を言うと痛快に感じてしまうところです。特にゾーラがゴルフクラブを握った時の興奮は半端ない。しかし、ここでもう1つの二面性が明らかにされます。それは、「人間は自分の生活を護るためなら、何だってする」ということ。ドッペルゲンガーの撃退は観ていて痛快ですが、状況を考えれば、貧困層の革命を富裕層が力によって封じ込めているわけですし。まぁ、この点は襲ってきたアイツらが悪いんですけど、しかし、これによって、上述の構造が鮮明になり、この世界の二面性が明らかにされます。

 

 ラストにはここまでぼかし気味だった、アデレードの正体が明らかになり、正体を察したジェイソンがお面を被ります。そこから、私は非常に奇妙な気持ちに襲われました。つまり、「もうこの家族は、乗っ取られているのでは?」という不安感です。これはジョーダン・ピールが子どもの頃に感じていた恐怖そのままなのだと思います。

 

 本作には欠点もあります。後半の展開が世界規模になっているからトンデモ感が強調されてしまったとか、全体的に「メッセージありき」で映画が作られているため、示唆的過ぎるなどです。しかし、本作は『ゲット・アウト』と比べて、格段に洗練さているため、そこまで気にはならず、楽しむことができました。

 

 

監督前作。こちらも面白かったです。

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 撮影監督が同じ。

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寓意性に富む秀作【ディリリとパリの時間旅行】感想

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80点

 

 

 『プリンス&プリンセス』「キリクと魔女』などを制作した、フランスのアニメーション界の巨匠、ミッシェル・オスロ。彼の最新作です。都内の映画館に行くと度々目にしましたし、そういえばミッシェル・オスロ監督の作品は観たことがないので、新作で観たい映画が無いことも重なり、今回鑑賞した次第です。

 

 鑑賞して驚くのはそのアニメーション。キャラクターのデザインが、日本的な手描き全開で、情報量が多いアニメーションではなく、かと言ってディズニー、ピクサーのような極めて精巧なCGと言うわけでもなく、フラットで、光と影もなく、極端なまでに簡略化されています。それは動きも同じで、本作の中のキャラクターの動きは、上記2つと比べると、非常に簡単な動きしかしません。そしてさらに驚くべきはその背景。何と、実際のパリの写真を使っているのです。つまり本作は、実際のパリの写真を背景に、簡略化されたキャラクターが活躍するというものになっているのです。

 

 日本、ディズニー、ピクサーのアニメーションに観慣れている身としては、最初は戸惑います。しかし、鑑賞するにしたがってこの違和感は薄れていき、途中からはすっかりキャラクターを実際に「生きた」存在として、感情移入して観てしまっているのです。監督はこのようなことを言っています。「リアルな3Dは夢を見ることができない」と。「リアル」を追求するのではなく、アニメーションとして、敢えて簡略化したキャラクターデザインを用いることで、観客に想像の余地を残し、それが逆説的に彼らを「生きた」存在にしているということですか。

 

 現在、NHKでは「なつぞら」が放送中ですが、確かに、あの時代の東映動画の作品は、簡略化されたデザインでした。そしてそれ故に、多彩な動きができ、生命を宿らせることができていたと思います。ならば、本作は、由緒正しい意味での、「アニメーション」なのかなと思います。

 

「なつぞら」のアニメーション資料集[オープニングタイトル編](小冊子)
 

 

 ストーリーも非常に簡単なもので、ディリリという才女が、パリにはびこる「男性支配団」に仲間と共に立ち向かうというもの。鑑賞していて、主人公が少女である点、物語が非常に寓意性に富んでいる点で、ミヒャエル・エンデの「モモ」を思い出しました。

 

 本作の男性支配団とは、読んで字の如し、男性優位思想のメタファーです。それが象徴的に出ているのが、女性を小さい頃から「椅子」として教育している点。昔より、どの国でも、女性の役割は家事とか育児であり、男性を支えるものであるとされていました。今では大分風向きは変わってきましたが、根強く残っている考え方だと思います。本作の「椅子」は、こういった「女性は男性を支えるものである」ことを社会ぐるみで教育しようとしたことのメタファーなのでしょう。だから、一度掴まったディリリが、自らの意志で脱出する姿に胸をうたれるわけです。

 

 本作はそこに明確に「ノン」と言うわけです。そしてその代わりに子供たちに教えるべきは何か?まで示しています。劇中では、数多くの文化、芸術の偉人が出てきます。そしてディリリは、彼ら彼女らの名前をメモをし、記憶していきます。子どもには可能性があり、そんな彼ら彼女らに対して教えるべきは、男尊女卑思想ではなく、豊かな文化なのだ、と言っているのです。

 

キリクと魔女 [DVD]

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 以上のように、非常に知的なメッセージ性を持っている作品ですが、作品全体の知性も素晴らしいと思います。作中の敵対構造を単純に「男VS女」にせず、男性支配団の連中を「哀れな思想に憑りつかれた人」とし、ディリリに協力的な男性も多く登場させてバランスをとっています。中でも印象的なのはルブフ。最初こそ、ディリリを「豚」などと呼び、女性の下で働くことに不満を覚えていましたが、男性支配団の思想を知るや明確に反対の意思表示をし、ディリリに協力します。このようなことを、「バランスとり」としてやっているのではなく、自然な流れでやってのけている点は素晴らしいなと。

 

 また、実際のパリの写真を使うことで、この問題が「今」と地続きであることを強調していますし、観客をベル・エポックの時代のパリにタイムスリップさせることに成功しています。時間旅行をしていたのは、観客だったのね。この辺も知的だなぁと。

 

 以上のように、簡素なアニメーションとストーリーにより、現代にも通じることを見事に描き切った作品でした。さらに、最近の情報過多な作品に慣れ切った私としては、「アニメーションって、こんなに簡素で良いんだ」と思わせられる作品でした。

 

 

寓意的なアニメーション作品。

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 日本代表で。

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物語の中で、彼らは生き続けている。タランティーノの愛に泣きました【ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド】感想

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95点

 

 

 クエンティン・タランティーノ監督、通算9作目(『キル・ビル』を2作で1作とカウントした場合)の作品。告白しますと、実は私はタランティーノ作品はそこまで映画館で観たことはありません。観たことがあるのはまさかの『ジャンゴ 繋がれざる者』1作のみ。『ヘイトフル・エイト』のときは、映画にどっぷり浸かる前の時期だったこともあり、スルーしちゃったんですよね。そんなわけで、本作は私が映画に浸かってから初めて映画館で鑑賞するタランティーノ作品なわけです。なので、どうせならとまだ観ていなかった過去作を全て鑑賞して、本作を鑑賞した次第です。


 本作を観て驚くことは、ストーリーが無いこと。予告でも言われている、ラスト13分で起こる事件以外は、リックとクリフ、そしてシャロンのハリウッドでの日常を映しているだけで、ヤマもオチもありません。本作では、この点で3者3様の生活を同時進行的に見せるという、タランティーノの脚本力が発揮されています。

 

 
 このリックとクリフ、そしてシャロンをそれぞれ演じるレオ、ブラピ、マーゴット・ロビーが素晴らしい。レオは「旬が過ぎたスター」という自虐ネタとも見えなくもない役をヘタレ感満載で好演していました。個人的に、悲願のアカデミー賞を獲得したせいか、演技にそこまで力が入ってない感じがして、そこも感慨深かったなぁと。また、ブラピは冴えない日々を送っていながらも、リックと支えるスタントマン、クリフを好演。本作イチのイケメンであり、彼の役柄では、ここ数年ではベスト級のカッコよさでした。さらに、近年活躍が目覚ましいマーゴット・ロビーは、素の顔が本物のシャロン・テートに似ていることもあり、見事にシャロン・テートを演じ、彼女を「生きた」存在にしています。

 このような非常に魅力的な人物が日常を過ごしているので、ストーリーに起伏が無くても、寧ろそれが功を奏し、「何時間でも観ていたい」と思わせてくれる作品になっていました。しかし、そこはやっぱりタランティーノですから。もちろんそれだけではなく、本作にはタランティーノの「願い」と「愛」が込められていて、私はそこに涙しました。


 その「願い」とは、シャロン・テートを「生きた」存在にすること。各種インタビューでもタランティーノは語っているのですが、シャロン・テートという女優は、女優としてではなく、マンソン事件の被害者として、若しくはロマン・ポランスキーの妻としてしか認識されていません。私もそうでした。タランティーノはこの点を踏まえて、映画の中で、マンソン事件を回避させ、彼女が生存したifルートを作り出します。そして同時に、シャロンの日常を描くことで、彼女を1人の役者として観客の頭の中に刻み込ませ、物語の中で「生」を与えたのです。

 

文庫 ファミリー上: シャロン・テート殺人事件 (草思社文庫)

文庫 ファミリー上: シャロン・テート殺人事件 (草思社文庫)

 

 
 そしてこの点はリックとクリフにも当てはまります。それがタランティーノの愛です。リックとクリフは架空の人物ですが、もし実在していたとしても、確実に映画の歴史には残らなかったでしょう。少なくとも私のような若輩者は全く知らない、それこそ、タランティーノレベルの人間しか知らない映画人だったと思います。そしてそのような人間は、大勢いたのです。本作は、そんな「歴史に埋もれてしまった」映画人達をも我々観客の中に「生きた」存在として残す映画でした。


 特に感動的なのが、終盤での、マンソン・ファミリーの心変わりのシーン。あそこは、犯行直前にリックが彼らにクレームをつけたことから始まります。そして、リックを認識したファミリーの1人はリックの存在を知っていて、彼が主演したTVドラマのファンだったことが明らかになります。リックは「もうどうしようもないよ、俺のことなんて誰も覚えてないしさ」と言いますが、覚えている人間がいたのです。しかも、それが歴史を変えるきっかけになるのです。これは泣けますよ。そしてファミリー襲撃事件では、「危ないことを引き受ける」スタント・ダブルであるクリフがファミリー撃退を引き受けます。こうしてファミリーは撃退され、シャロン邸の門をくぐったのは、リックでした。


 この「歴史に埋もれた人々を救済する」点は、タランティーノの経歴を辿れば、至極自然な着地で、同時に集大成にふさわしいものです。彼は自身の作品で、彼が愛した、歴史に埋もれてしまったB級、C級の映画たちをサンプリングした作品ばかり作っていました。そんな彼が一応の「引退作」として制作した本作は、B級、C級、そして歴史に埋もれてしまった映画そのものの話でした。彼の幕引きとしては、これ以上のものはありません。


 リック・ダルトン、クリフ・ブース、シャロン・テート、そして、本作に出てきた全てのハリウッド映画人たち。彼らはまさに本作の中で生きていたし、これからも物語の中で生き続けていくのだろう。そんなことを考えた作品でした。

 

 

タランティーノ出世作

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 LA映画繋がり。

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事なかれ主義は破滅への第1歩【隣の影】感想

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87点

 

 

 アイスランド発の映画。ぴあの水先案内で私が信頼している案内人が推薦していたので興味が湧きました。ただ、公開規模が小さいということがあり、時間の関係で中々観に行けず、公開からしばらく経ってしまったのですが、夏休み中にちょうど観られるタイミングができたので、鑑賞した次第です。

 

 本作は、我々も日常的に暮らしているような平凡な住宅地を舞台にしたご近所トラブル映画で、非常に小規模な作品です。しかし、それであるが故に本作で起きていることが他人事のように感じられず、観ている間、終始緊張しっぱなしで、胃がヒリヒリと痛む作品でした。

 

 全ては、隣の家から「邪魔だから木を少しだけ切ってほしい」とお願いされていた家族が、中々要求に応じなかったことが発端です。この木がある家には老夫婦が住んでいて、途中から主人公である次男が帰ってきます。この次男は元カノとのSEX映像を使って自慰をしていたところを奥さんに見つかってしまって、家を追い出されていて、緊急避難として実家に戻ってきているのです。この自慰がバレるシーンに代表されるように、本作には、笑いに至るまでそこかしこに監督の意地悪な性根が見えています。

 

 最初こそ、些細なことでした。普通の大人ならば、ここは大人の対応をしましょうやと、話し合って妥協点を見出すはずです。しかし、木を植えている隣家、特に老婦人は違いました。長男が失踪していることで「これ以上何も失いたくない」と思っているのか、頑なに隣家の要求を拒みます。そしてある日、家の車がパンクしたことを機に、隣家への疑いを強めていくのです。ちなみに、このパンクは最後に至るまで誰の仕業かは分かりません。ここも不気味な点です。それはエスカレートしていき、家に監視カメラを設置し、庭を荒らすなど、隣家への嫌がらせを強めていきます。そして「猫が消えた」ことで、老婦人は人間としての一線を越えます。この行いにはドン引きしました。これにより、まだ大人で、老婦人への横暴にもイライラを募らせつつも、耐えていた隣家も報復をし、そこからはもう取り返しのつかない大惨事を生みます。

 

 何故こんなことになったのか?それは簡単で、互いが互いのエゴを剥き出しにたから。それは彼らと対比的に描かれる主人公とその奥さんによって強調されます。彼らは、紆余曲折ありましたが、きちんと互いに理解をし、「大人の対応」をするのです。まぁ、この和解の後に惨劇が起こってしまうので、監督は意地が悪すぎるなと。

 

 そして、もう1つの問題点があって、それは老夫婦の夫です。彼は明らかにおかしくなっていっている老婦人に対して、特に何をするでもなく、ひたすらに事なかれ主義を貫きます。ようやく行動をしたと思ったらまさかの逆ギレで、惨劇を広げてしまいます。彼は別に分かっていないわけではありません。劇中では、「話し合いをしなければならない」と主人公にアドバイスをします。そう、彼は「分かっているくせに行動していない」という一番たちが悪い人間なのです。だからこそ、最後の惨劇の責任転嫁をすることでしか自分を正当化できないのです。

 

 ラストの「帰還」も含めて、極めて露悪的で、意地の悪い映画でした。そのヒリヒリ感が最高であったのですけど。

 

 

正反対の日常礼賛映画。

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 同じく隣人映画。

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