暇人の感想日記

映画、アニメ、本などの感想をつらつらと書くブログです。更新は不定期です。

「信念を貫き通したヒーロー」の完結篇として最高だった【シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ】感想

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82点

 

 「アメリカの理想」を体現したヒーローとして、アベンジャーズの中でも中心的な役割をしてきたキャプテン・アメリカ。彼の単独作として3作目となる本作は、『アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン』の正統な続篇であり、キャップはもちろん、他のヒーロー達の信念も試される話でした。それ故にこれまで出てきたヒーロー達が大量に登場します。なので話の軸がブレるのではないかと考えがちですがそんなことはなく、間違いなく『キャプテン・アメリカ』の話になっているという、ルッソ兄弟の手腕が遺憾なく発揮された作品となりました。

 本作の舞台は『エイジ・オブ・ウルトロン』から1年後。キャップ達が犯罪者を倒す過程で無関係の民間人に被害が出るという、ショッキングなシーンから始まります。そこから話は『エイジ・オブ・ウルトロン』の裏面に焦点が当てられていきます。それは彼らの活躍の裏で、実は多大な犠牲が出ていたということ。この事態を重く見た国際的な政府組織(いちいち書くの面倒だから国連で良いかな?)は、ヒーロー達を自らの管理下に置くソコヴィア協定を立案。この協定の傘下に入るか入らないかでアベンジャーズが分裂するという、『ガメラ3 邪神覚醒』的な「ヒーローの相対化」の話でした。この点で、本作は事実上の「アベンジャーズ2.5』とも言えます。この「分裂」も双方の言い分に説得力を持たせられるように作ってあってとても上手いなぁと。

 では本作はキャップの話ではないのか、と思われますが、そんなことはない。きちんとした『キャプテン・アメリカ』の3作目でした。彼は「アメリカの理想」を体現するヒーローです。しかし、時代とともに国家の価値観が変わり、彼は理想と現実のギャップで悩み続けます。しかし、自身の信念を貫いてきました。それが前作『ウィンター・ソルジャー』でした。

 本作もまさしく彼が「信念を貫く」話です。しかし、あちらでは彼の選択が功を奏しますが、本作はむしろ争いの種となってしまいます。今回彼が貫くのは、友人・バッキーを護るということ。もちろん無実と信じてですが、そのせいでアベンジャーズと対立し、一時的な離脱を余儀なくされます。「自らの信念を貫いた結果、アベンジャーズから離脱」という、実に彼らしい結末です。この「貫く」という点で、やはりトニー・スターク/アイアンマンとは対照的です。彼は柔軟に対応していきますからね。

 完全に離脱してしまったのかと思われましたが、ラストの台詞で少し救われました。『インフィニティ・ウォー』への布石でしょうけど、まだ仲間だと思っていたのですね。

 他にはやっぱりキャラ全員の活躍のさせ方がとても上手いとか、キメ画はきっちりキメてきて上がるとか、良いところが目白押しな1本した。ただ、難点を挙げるとしたら、アベンジャーズが振り回されすぎな点ですね。

アメコミヒーローを通して、今、現実の世界で求められているリーダーを描いた快作【ブラックパンサー】感想

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86点

 

 MCU最新作。アメリカではMCUの中でも屈指の大ヒットを飛ばしている本作。実際に観てみると、ヒットするのも納得の作品でした。というのも、本作は「ヒーローのオリジン」と「主人公の成長」を軸に話が展開し、それが達成された時、自然と今の世界に向けてのメッセージにつながってくるという、アメコミヒーロー映画としても、搾取と差別の歴史を踏まえ、今を描いた社会派映画としても非常に完成度の高い作品だったからです。

 

 観始めて目を奪われるのは、スタッフが徹底して調べ上げたというアフリカ地域の民族文化。エキゾチックな印象があり、観ているだけで楽しいです。

 

 本作の主人公はティ・チャラ。彼は『シビルウォーキャプテン・アメリカ』で死亡したティ・チャカに代わって王位を継ごうとしています。しかしこの男、どうにも頼りない。それは冒頭から出ていて、彼は元カノの前に立つと緊張で硬直し、若干ピンチに陥ったりします。そしてそれを護衛隊長であるオコエさんにたしなめられる始末。周りがしっかりしているだけに、余計に彼の頼りなさが強調されます。ちなみにこの冒頭の戦闘シーンは、アクションだけでキャラ紹介をしている良いシーンでもあります。

 

 でも、その周りも少し問題で、基本的になぁなぁのまま彼を甘やかしています。王位の継承儀式も出来レースでしたし。途中の乱入が無ければ、彼の強さすら疑っていました。

 

 そんな甘やかされているチャラと対照的なのがマイケル・B・ジョーダン演じるエリック・キルモンガー。本作の事実上の主役とも言える彼はヌクヌク育ったチャラとは対照的に、底辺から自力で這い上がった男。なのでチャラとは違い、苦しんでいる人々の辛さを身を以て知っています。そんな彼の目的はワカンダを乗っ取ること。何故彼がそのようなことを考えたのか。それはワカンダの持つ欺瞞が原因です。

 

 ワカンダはヴィブラニウムが採れる唯一の国で、その科学力は世界の水準を遥かに上回ります。そんな超絶科学を持つならば外国にさぞかし有益なことをしているのかと思われますがそんなことはない。「他国のゴタゴタに巻き込まれるのはごめんだ」とし、諸外国にはその科学力を徹底的に秘密にし、世界には「農業国」として通しています。つまり、他国の窮状を救える力があるのに、黙って見ているわけです。

 

 エリックの父親はこの欺瞞を止め、科学力を持ち出そうとしたためチャラの父親に殺されたのでした。エリックは底辺から這い上がったため、苦しんでいる人の気持ちが分かります。故にワカンダを乗っ取り、世界中の虐げられている人々に「戦うための力」を授けようとするのです。

 

 根底にある思想には非常に共感できます。世界中で言われていることですし。ですが、そのために武器を輸出することはどうなのでしょうか。これって、過去から現在まで、アメリカとかソ連とかロシアとか、所謂「大国」が小国に武器を送って代理戦争をさせていることとあまり変わらない気がします。

 

 虐げられた人々を救わなければならない。しかし、エリックも止めなければならない。チャラは葛藤の末に、過去のワカンダを受け入れ、「これからのワカンダ」を自らの意志で目指し始め、世界と繋がります。それは露骨なまでの反・トランプ的メッセージ。ここから、本作で描かれたヒーローは、まさに今、世界で望まれているリーダーであると言えます。

 

 こうして新たな決意を固めたチャラがラストにある場所に行くことでワカンダの在り方が冒頭と対比され、「あの」子どもの問いかけに答えられるチャラは、まさしく新しいワカンダの国王なのです。

 

 また、冒頭と言えば、最初の最初。ある人物がおとぎ話を聞かせているシーン。終盤でその人物が分かるのですが、ここでもう感動が何倍増しになります。

 

 エリックは今回で退場ですが、彼の存在は今後もチャラの中で生き続けるでしょう。何故なら、チャラが目指すワカンダは、エリックが憧れていたものだろうから

 

 最期に・・・ワカンダフォーエバー!

誰かの愛に包まれた人生っていいよね。【さよならの朝に約束の花をかざろう】感想

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65点

 

 『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』『とらドラ!』『心が叫びたがっているんだ』などで知られる脚本家、岡田麿里。彼女の初監督作。脚本家が監督に転向することは実写だとよくあることです。邦画で有名どころを言えば、宮藤官九郎とか、三谷幸喜が挙げられます。しかし、アニメーションの世界で、しかも女性が脚本家から監督をしたことは、過去に例が無いのではないのでしょうか。しかも、初監督である彼女をサポートするべく集まった人材は、篠原俊哉平松禎史井上俊之といったベテランスタッフ。こんな異例の作品であれば、アニメをそれなりに見る身としては気になるのが性というものです。という事で、初日に鑑賞しました。

 

 驚きました。初監督作として、堂々たるものになっていたからです。内容も、彼女の作品らしい、清濁が入り混じった、愛と人生の話でした。ここで出てくる「愛」は、恋愛や母性愛など、特定の「愛」ではなくて、全てを総括した意味での「愛」だったと思います。

 

 本作の主人公は2人の女性、マキアとレイリア。ここで重要なのが、彼女たちが歳をとらない「イオルフ」であり、「別れの民」と言われていること。歳をとらず、人間とはいずれ死別してしまうから自らをこう呼び、外界との関係を断っています。本作はそんな彼女たちを狂言回しにして、普遍的な「愛」と人間の人生を浮き彫りにしていきます。

 

 本作は、まず人間から強襲を受けたマキアが、人間界に「落ちてくる」ところから始まります。これはまさに神話的な存在が下界に落ちてきたことを意味していると思います。つまり、本作においてマキアとレイリアは神話的な存在なのです。

 

 そんなマキアが拾ったのは同じく独りぼっちだった赤ん坊のエリアルを拾います。個人的にこの時の、母親の指を一本一本折っていくシーンは母親の力強さを示した名場面だと思います。彼女はエリアルを「ヒビオル」とし、育てていくのです。

 

 エリアルはどんどん成長していきます。しかし、マキアは歳をとりません。故に、場所を転々とします。エリアルは成長し、幼少期から思春期を経て、大人として自立していきます。それを駆け足ながらも要所要所で語っていきます。ここで興味深かったのは、マキアも一緒に「母として」成長すること。子どもから教えられることがたくさんあるのです。このことは、私自身も聞いたことがあります。こうして、2人は共に成長していくのです。これは我々の実人生の寓話であることは明白ですね。

 

 一方、「共に成長する」マキアと対照的なのがレイリア。今回の岡田磨里の被害者です。彼女は王宮に幽閉され、「王の母親として」振舞うことを強要され、しかも、「子どもを産むため」にしか必要とされていません。しかも子どもにも会えないし。ちなみに、この時に出てきた王子がキモデブってのは岡田さんらしいなぁと思いました。更に脱線すると、攫われた他のイオルフは一体どうなったのでしょうか。ねぇ?・・・などどいうゲスな勘繰りもできてしまうのです。

 

 そんなこんながあった後、マキアとレイリアは人間界から離れます。しかし、その結末は、それぞれのものでした。

 

 マキアはラストで彼の子どもの出産に立ち会います。彼女が育てた命から、また新たな命が生まれたのですね。これが戦闘シーンと並行して描かれているのは面白いなぁと。対してレイリアはひどい目に遭いましたが、娘と会い、世界を肯定して去ります。

 

 本作はマキアとレイリアの話ですが、同時にエリオルの一生でもあります。彼は普通に生きて、幸せになって死んでいきます。そしてその傍には、常にマキアがいました。いなくても、多分遠くから見守っていたのでしょう。つまり、どんな時も、マキアからの愛に包まれていたのです。人間って、愛されるなら、どこでもその人がいる場所が居場所になるのですね。

 

 このように、本作はマキアとレイリアという神話的存在を使い、人間の一生を浮かび上がらせるとともに、普通は目に見えない「愛」を彼女たちという形として描いた作品だと思います。

 

 ただ、言いたいこともあるのも確か。色々と話しすぎな気がします。その度にストーリー止まってたような。細田守さんが『バケモノの子』と作った時も自分で脚本書いて説明しすぎてたけど、やっぱり監督が脚本も兼任すると、言いたいことがモロに出ちゃうのかな。後、時間経過が少し分かりにくいときがあった気がしたとか、やっぱりラストは泣かせようとしすぎで、少し冷めちゃったとかです。でも、やりたいことは分かったし、初監督作でこれは凄いと思います(何様だ)。

秀逸なリメイク作品【銀河英雄伝説 新たなる戦いの序曲】感想

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78点

 

 『銀河英雄伝説』劇場版第3弾にして、OVA版では最終作。内容はOVA版の1話と2話を元に、外伝の内容などを加味したもので、リメイクに近いと思います。ですが、昨今アニメ界で流行りの既存の映像を切り張りし、新規カットを加えて新たに作り直すものではなく、全編新作です。しかも素晴らしいのは、これ1本でちゃんと独立した作品として成立している点です。

 本作は上述の通り、OVAシリーズの1話と2話のリメイクです。しかし、上映時間は90分。2話合計しても約48分くらいですから、単純計算で約40分本編が足されていると考えられます。OVAでは会戦しか描かれなかったため、本作では、そこに至るまでの過程を丁寧に膨らませて語り、のちに起こる悲劇の度合いを十分に高めています。

 帝国陣営はラインハルトがフリードリヒ4世に戦慄したり出征までの宮廷内の駆け引きなどが描かれ、同盟側では主にヤン、ラップ、ジェシカの三角関係が描かれます。中でも白眉は序盤の3人のシークエンス。台詞を一切使わず、あの3人の関係と気持ちを完璧に表現した演出には脱帽です。しかし、故にラップの最期は虚しさが増します。「もしあの時、早く援軍に駆け付けていれば」1話を見た時以上にそう思わせられます。

 この点から考えると、本作は理想的なリメイクと言えると思います。これ1本で完結していますし、何より既に見た人間も楽しめるようにできています。キャラの関係がOVAよりも丁寧に描かれているので、より感情移入がしやすくなるのです。

 作画が凄いとかもう書かなくてもいいよねってくらいの安定の作画力。メカの細かさは異常。とにかく、1回見た人、初めて見る人両方にお勧めできる秀作でした。

観ると腹が減る、犯罪的飯テロ映画【シェフ 三ツ星フードトラック始めました】感想

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80点

 

 この世界には、「飯テロ」という言葉があります。主に深夜など、「飯を食べてはいけない」時間帯に発生し、我々の食欲を刺激するという犯罪に等しい行為です。中でも代表的なのはTVドラマ『孤独のグルメ』シリーズ。出てくる料理、そしてそれを食べる井之頭五郎の表情、全てが食欲を刺激します。まさに飯テロ。そしてこの定義から考えると、本作は「飯テロ」映画と言えると思います。出てくる料理全てが美味そうなのです。監督・主演のジョン・ファブローはこのために実際にプロの料理人に料理を習い、技を取得したそうです(EDに少しその様子が映っていましたね)。その成果が見事に出ています。しかし、本作はそれだけではなく、1度どん底に落ちた男がまた這い上がるという誰が観ても楽しめる娯楽作となっていました。

 本作を観て誰もが連想するのは監督・主演のジョン・ファブロー自身のキャリアです。彼はMCU第1作『アイアンマン』を監督し、批評的にも、興行的にも大成功を納めます。そしてその後も大作に関わることになるのですが、そのどれもが成功とは程遠い結果に終わり、批評家からボロカスに叩かれたそうです。確かに、『アイアンマン2』は微妙な出来でしたが、本作を観ると、何とな~く事情を察することができます。ずっと上の方から指示出されてたのね。つまり本作は、ファブロー自身の伝記映画と言えるのです。だから主演もやっているのですね。彼自身の話だから。

 また、本作はロードムービーでもあります。フードトラックでアメリカを横断するのですが、そこで立ち寄った地域の料理を取り入れていくのです。つまり、地域を回れば回るほどレパートリーが増えていくのです。一種の「アメリカグルメの旅」な感じで、アメリカの料理の豊富さを堪能できます。

 さらにこれに加え、本作は主人公が周囲を見つめなおし、欠けていたものを手に入れていく話でもあります。その最たる人物が息子。彼はよく言えば仕事人間で、家庭を顧みない男で、離婚してますし、息子との接し方も分かりません。しかし、この旅で、「料理人」の関係を通して、息子との関係を修復していくのです。しかも、息子がSNSを担当し、店の売り上げに貢献するなど、こういった織り込み方も上手いなぁと。

 本作は息子視点で見ることもできます。そう観ると、彼にとってはひと夏の思い出であり、だからこそ、最後の動画で泣けてきます。

 そうして、本作はこれらの王道要素を『アイアンマン』で見せたあのカラッとした作風で仕上げています。とにかく主人公が前向きで、周囲の人間も彼に協力してくれて、割とトントンと話が進んでいきます。この「まぁ人生、何とかなるっしょ!」な感じは見習いたいもんです。

 このように、本作は上述の王道要素をカラッとした作風で仕上げた、作中登場する料理のように大変旨い作品でした。

「現実の世界」をそのまま切り取った映画【スリー・ビルボード】感想

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94点

 

 今月の頭に発表されたアカデミー賞において、最後まで作品賞本命の1つと言われていた作品。その評判の良さは公開前から聞いていまして、2月中に鑑賞していました。しかし、最近どうにも時間が取れず、感想を書くのがこんなに遅くなってしまいました。

 感想として、凄まじい映画でした。観ていくうちに映画の印象が二転、三転どころか四転、五転していき、最終的に映画の内容は観始めたときは全く想像していなかったものになっていました。

 まず本作は、タイトルにもある3枚の看板から始まります。鑑賞後に考えれてみれば、この時点で、作品の根幹である「人間の多面性」がこれらの看板の表裏が映されることによって端的に示されていたのだと思います。

 この後に始まるのは、フランシス・マクドーマンド演じるミルドレッドが、この看板を持っている会社に使用許可を迫るシーン。ここで、自然なやり取りによって事態を観客に把握させる脚本は見事だなぁと思います。これによると、彼女は娘をレイプし、惨殺した犯人を未だに捕まえられない警察に業を煮やしているらしく、ハッパをかけるために看板を使いたいのだとか。最初は、この彼女視点で話が進み、話も「田舎町で腐敗した警察と孤高に戦う」という、どことなく西部劇テイストです。彼女自身も表情を崩さず、常に繋ぎを着ているなど、どことなくクリント・イーストウッドっぽいなぁ、と思っていたら、本人はジョン・ウェインを意識したとか。さいですか。ただ、この彼女の行動も、ある人物たちの見え方が変わるにつれて、どんどん過激に映っていきます。

 その人物の1人がウディ・ハレルソン演じるウィロビー署長。最初こそ作品全体のラスボス感を漂わせている彼ですが、実は末期癌で、捜査についても決して手を抜いていたわけではないことが明らかになります。そして彼の取ったある行動が、さらにある人物を変えていきます。

 それがサム・ロックウェル演じるディクソン。最初こそ差別的で高圧的、最低な奴でしたが、ウィロビーにより、変わっていきます。そして、作中で最も重要な要素である、「対立するのではなく、愛を以て接する」ことを体現する存在となります。また、彼にもある秘密があることが明らかになり、常に高圧的だったのも、それが原因となっていたことも明らかになります。

 このように、本作は主要3人の印象がコロコロと変わっていきます。これによって、我々には、登場人物を型通りの「キャラクター」ではなく、1人の「人間」として見ることができます。そしてそれ故に、何が正義か分からない、というか、決まった正義があるのかも分からない、という混沌が生まれ、まさにこの世界のどこかで起こっていてもおかしくないような話になっているのです。

 このように展開は二転、三転し、最終的には正義の話になるのかなぁと思います。ミルドレッドは以前教会に通っていましたが、事件の後は通うのを止めました。そして、劇中では混沌とした出来事が起こっていますが、事態を打開できるようなことは何も起こりません。むしろ、話が進むにつれてややこしくなり、不条理極まりない。この世に神はいないのか。ラスト、ミルドレッドはとある決断をします。それは本当に正しいのか?この疑問に対し、彼女はこう答えます。「道々考えるわ」。我々はどう考えるのか。それを語りかけてきた気がしました。

 また、恐ろしいのはこの映画、ここまで登場人物の印象をグチャグチャにしているのに、話が全く破綻していないのです。脚本が素晴らしいことがあるでしょうが、この点についてはそれ以上に、役者さんの力量の高さがあるでしょうね。アカデミー賞でも主要なところは獲ったし。

 しかも本作は、それらを非常に高い水準の技術で撮っています。よく言われている長回しもそうですが、画面にも情報が張り巡らされていて、ミルドレッドが看板の下のかざる花とか、ブランコとかですね。つまり本作は、非常に高いクオリティの脚本を一流の役者とスタッフが形にした良作だと言えると思います。

人間と愛。それらに決まった形なんて無い。【シェイプ・オブ・ウォーター】感想

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93点

 

 突然ですが、ギレルモ・デル・トロ監督は『美女と野獣』があまり好きではないようです。理由は簡単で、醜い野獣が最終的にイケメンになるから。作品が「大切なのは心の美しさなんだ」とのたまっているため、余計にこのラストに疑問を感じたそうです。

 本作は、彼のそんな気持ちを、昔から好きだったという『大アマゾンの半魚人』をベースにして作り上げたアンチ『美女と野獣』な要素を入れつつ、現代的な多様性を描いた作品になっていました。

 アンチ『美女と野獣』の最たる例はイライザと半魚人。『美女と野獣』のベルは清廉潔白な女性として描かれていますが、本作のイライザはベルのように理想化された存在ではなく、普通の女性として描かれています。失礼ながら、彼女はそこまで「美人」というわけではありませんし、ちゃんと性欲もあります。

 そして本作の野獣にあたる半魚人は、見た目からして結構キテます。外見は怪獣そのものですし、肌もヌルヌルしてそうです。つまり、外見がキモい。中盤でジャイルズが彼と触れた手を汚いものに触ったかのように振るシーンがありますが、そんな行動をとってしまっても何だか納得してしまいます。しかも彼はキスをしてもイケメンになどならないのです。

 しかも彼は、『美女と野獣』の野獣であると同時に、世界全ての「異種」の象徴としても描かれていると思います。故に、本作は愛の物語でありながら、「今」の話になっています。

 本作の話の中心はイライザと半魚人のラブストーリーです。物語も2人と周囲の人間という、狭い世界で展開されます。しかし、彼女たちの「外の世界」では、歴史上に残る悲劇が起こっています。それらは冷戦だったり、部屋のTVに映される黒人差別や、映画館でかかる映画で描かれる奴隷への虐待などで示されます。それは自分たちとは違う「異種」への暴力です。そして、ここにアメリカ政府が半魚人に対して行っていたことが被ります。つまり、本作は、半魚人を通して、当時世界で起こっていたことと同じことを我々に見せているのです。そしてそれは現代にもぴったりとあてはまることだと思います。

 デル・トロ監督は本作をジ・アザーズ(のけ者達)の映画だとしています。彼はパンフレットでモンスターについて、「普通であることに殺される殉教者」と述べています。また、「白か黒かはっきりしろと迫られるのは恐怖だ」とも述べています。つまり、本作は、世間一般でいう「普通」が重要な要素となっています。確かに、登場人物は「普通」ではありません。イライザは喋れませんし、ジャイルズはゲイ、仕事の同僚は黒人です。本作はこのアザーズが「異種」である半魚人を助ける話なのです。

 彼らに敵対するのは、軍人のストリックランド。彼は所謂「強いアメリカ人」を体現しようとしている人物。「トイレで用を足した後に手を洗うやつは軟弱」とか、訳の分からないこと言ってますし、奥さんとのセックスシーンでも、奥さんの口を塞ぐ(相手を黙らせる)とかやってますし。

 彼とイライザの半魚人に対する対応も対照的に描かれます。イライザは半魚人と会った時、まず卵を渡します。そして、手話で「会話」をします。また、イライザの周囲の人間も、半魚人に対して、キモいと思いながらも、何とか理解しようとして、付き合おうとします。対して、ストリックランドや政府が行うのは暴力。コミュニケーションなどせず、まず相手を暴力で押さえつけようとします。

 「強いアメリカ」の象徴が「異種」を理解しようとせず、暴力で押さえつけようとする。現在でもアメリカに限らず、世界中で起こっていることです。

 しかし、彼も「普通」になろうとしている1人の人間なのです。このように、本作は「普通」がもう1つのテーマとなっています。そしてそれはタイトルにも表れています。「シェイプ・オブ・ウォーター」は「水の形」。それは不定形。「愛に形などない」という意味もあります。ですが同時に、人間はいろんな形があっていいのでは、という多様性のメッセージにもつながっていると思います。

 その他の点で素晴らしいと思ったのがミュージカルシーン。ミュージカル映画とは、キャラクターの感情を「踊り」で表現するという非常に映画的な表現です。故に、それまで声を封じられてきたイライザが気持ちを爆発させて踊りだすシーンは、ミュージカルの完璧な使い方だったと思います。

 本作はまさしくおとぎ話です。しかし同時に、監督の気持ちを怪獣に託した真っ当な怪獣映画でもあります。デル・トロ監督は『パシフィック・リム』で本多猪四郎監督に作品を捧げていました。そんな彼が怪獣映画でアカデミー賞を獲ったという事実はとても感慨深いです。おめでとう!