暇人の感想日記

映画、アニメ、本などの感想をつらつらと書くブログです。更新は不定期です。

オタクの「夢」が詰まった超ド級エンターテイメント【レディ・プレイヤー1】感想

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 80点

 

 観ている間、そのあまりにも独創的な世界観に頭がクラクラすること必至な本作。私も公開当初から観たかったのですが、どうにも時間が取れず、結局観るのが1カ月遅れてしまいました。

 

 結論から言うと、「モヤモヤが残るけど、めっちゃ楽しかった」です。序盤のカーチェイスを始めとし、怒涛の勢いで繰り広げられるアクション、そしてアクションとドラマが緩急をつけ展開される粗はあれどテンポがいいストーリー、そして何よりスピルバーグのブランド力でかき集めたポップカルチャーで埋め尽くされたオアシスの世界観は観ていてクラクラしてきますが、とにかく楽しいの一言。そしてそこに「今」の世界へ向けたスピルバーグのメッセージが込められていいて、エンタメ作品としては申し分ない出来なんじゃないかと思いました。

 

 そのメッセージとは、「自分たちの居場所を護るためには、時には自らが立ち上がる必要がある」ということだと思います。これはスピルバーグが同時期に制作し、公開された『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』にも通じるメッセージだと思います。さらに、特別な才能を持たない「一般人」(オタクですけど)が立ち上がり、皆を動かす物語であることも、非常に今日日的なテーマです。それはタイトルからも明白かなぁと思っています。「プレイヤー1」ですからね。

 

 そんな主人公の名前はウェイド。彼はパーシヴァルというアバターを使ってオアシスで遊びまくる17歳。基本的に人と組まず、1人で行動しています。本作は彼の成長物語です。

 

 そして、本作の裏主人公とも言える存在がオアシスの創造主ハリデー。劇中ではもう死んでいる(と思われている)人物です。*1

 

 本作は、彼の過去にしでかした後悔の話でもあります。この後悔を主人公に「試練」として追体験させることで、ウェイドが正反対に成長していくようになっています。ウェイドは最初こそハリデーと同じく1匹狼でしたが、最終的には仲間を得、彼女もできてリア充になりました。

 

 ところでこのハリデー、現実のある人物を彷彿とさせます。そう、スピルバーグ本人です。シャイで、恋人もいなくて、でも天才で。そのまんま。彼が世界の神なのは原作がスピルバーグが生み出したもので満ちているためだと思われますが、本作を観ていると、それだけではなく、スピルバーグ自身の過去の清算でもあるのかなぁなんて思ったりしてます。以上の様な要素も過不足無く組み込んでくる手腕はさすがだなぁと。

 

 ここまで褒めました。けど、最初に書いたとおり、モヤモヤも残るんです。それはいくつかあって、まずはストーリー。観ている間は怒涛のアクションと展開でそこまで気になりませんが、よくよく考えると、粗が多い。例えば、リアルで皆が集合するシーン。オアシスは世界中でプレイされているはずなのに、何故あそこに全員集合できたんだでしょうか。また、試練について、こういう「誰も解いてない難題を解決する」ものにありがちな「何故これまで誰も解けなかったんだ?こんな簡単なのに」という疑問も抱いてしまいます。まぁこれは客観的に観ているからこう思うのかもしれませんが。後はこういう仮想空間を扱った作品で欠かせない「仮想空間ではカッコいいor可愛いけど、リアルだと・・・」が無いってのも問題ですね。主人公とヒロインがイケメンで可愛いとかどういうことだマジで。しかも簡単にくっつくしよぉ。・・・もう止めよ。

 

 また、最後の「メッセージ」も掘り下げが浅い気がします。そんな事、この手の作品ではさんざん言われてるんだよなぁ。でも、さすがはスピルバーグ。そこはそこそこ補強して、どちらにもとれるようにしている気がします。構造的には「現実的な資本家を仮想空間の住人が打ち倒す」というものですし。

 

 最後に、スピルバーグの「日本のポップカルチャーへの愛」について。観ている限りでは、言われているほどの愛は感じなかったような。確かに終盤のメカゴジラ登場、「俺はガンダムで行く!」発言からのガンダムVSメカゴジラにはめちゃくちゃ燃えましたし、何なら少し泣いてました。ただ、ガンダムを愛してたら活躍をあれで終わらせるとは思えません。他のアニメキャラも「ちょい見せ」程度の扱いで、そこまでの愛を感じません。メカゴジラは愛していたと思います。ちゃんとテーマも使ってるし、事実上のラスボスですし。私はそれ以上にスピルバーグの「映画愛」を感じました。『シャイニング』の下りはBGMもそのままに完コピしてましたし、アイアン・ジャイアントの活躍も素晴しかった。*2

 

 このように、愚痴もありますが、全体的に非常に楽しみました。

*1:「彼が隠した宝を見つけることで、莫大な資産と世界を与える」って、『ONE PIECE』のゴールド・D・ロジャーっぽい

*2:「なりたい自分になれる」世界に「なりたい自分になろうとした」このキャラがいるのは非常に意味深

立ち上がった「普通の人」の話【タクシー運転手~約束は海を越えて~】感想

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92点

 

 1980年5月に起こった光州事件を題材にした映画。韓国は民主化までの歴史的な背景のためか、こういった題材の作品には他の国とは違った熱量を感じますね。しかし、本作で描かれていることは、「過去のこと」や「軍部の暴走」といったことを超え、結構普遍的な内容だったと思います。それは、「自分たちの居場所を護るためには、時には自分たち自らが立ち上がる必要がある」ということです。これは奇しくも日本で同時期に公開された『レディ・プレイヤー1』と通じるところがあると思います。

 

 主人公・マンソプは娘と2人暮らし。タクシー運転手として生計を立てていますが、最近は学生のデモのせいで道路は封鎖され、商売あがったり。「今の学生は苦労知らずだから、国に文句なんか言えるんだ。一度砂漠にでも放り出せ。そうすればこの国のありがたみが分かる」などと言います。序盤はこのように、まだ平和な北京市内において、「知らない」状態の主人公の日常が繰り広げられます。その様はまるで下町人情喜劇。場内では何回か笑いが起きていました。しかし、ドイツ人記者・ピーターを連れて光州に入った時から、異様な気配が漂い始めます。市はシャッターが下り、「光州市の皆さんへ」と書いてあるビラがそこら中にあるのです。本作はこの「日常」と「非日常」の差が非常に上手く表現されていると思います。マンソプはこの自分にとっての「非日常」に入ることで、「当事者」となり、行動するのです。終盤、1回「日常」に帰って「当事者」として以前の「まだ知らなかった自分」を客観的に見せられるシーンがとても上手かったですね。

 

 これが「英雄の話」であるならば、「ふーん」で終わりそうなものですが、本作の主人公は「一般市民」です。物語は彼の視点で進み、彼の心境の変化が物語に変化をもたらすようになっています。これにより、本作は上記のような普遍性とともに、観客が話に入りやすくなり、同時にエンターテイメントとしてとても面白くなっています。本作は彼の成長物語でもあります。

 

 本作を語るうえで、もう1つ忘れてはならないのが「バディ・ムービー」という点。そのバディは言うまでも無く「タクシー運転手・マンソプ」と「ドイツ人記者・ピーター」です。彼らは互いの言葉が分かりません。このように、言葉が分からないけど、互いに協力して「真実」を伝えた、という点も、多様な人種を描く今日的な内容だと思います。

 

 このように、内容的には(多少の脚色はあるにしても)映画にできるほどドラマチックです。しかし、本作は徹底して登場する人が「一般人」なのです。デモをしていたのは名も無き学生ですし、協力したタクシー運転手たちも無名です。肝心の2人も、元を正せば動機は金です。しかし、これによって、本作は「英雄」の話ではなく、「個人」の話であり、この「個人」が立ち上がることで世の中を変えていくという非常に現代的なテーマの作品になったと思います。

 

 また、少し感慨深くなったのが「映画秘宝」に載っていた監督インタビュー。タクシー運転手は最後まで消息がつかめなかったのですが、映画完成後、主人公の娘から連絡があったそうです。その娘が、映画に出てたあの娘なんですよね。

 

 ただ、言いたいことが無いわけではなくて。それはラストのカーチェイス。正直、あれはいらないと思います。あれによって、最後の演説の感動が薄れてしまったと思います。あのシークエンスが入ったことで、「あそこで犠牲になったタクシー運転手には礼を言わないんだ」という雑念が入ってしまうんですよね。うん。

「君が代」の成立過程がよくわかる。変な意味ではなく、日本人必読だと思う。【ふしぎな君が代】感想

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著:辻田真佐憲

発行所:株式会社 幻冬舎

 

・前書き

 

 当ブログの紹介文ではこう書いてあります。「映画、アニメ、本などの感想をつらつらと書くブログです」と。ですが、記事を見渡してみたら、あるのは映画とアニメの感想ばかり。本の記事は、漫画とラノベだけという始末。しかも最近はアニメの感想記事を書くことすらできていない(見ていないわけではないです。今のクールだって12本くらい見てるし。念のため)。このような状態に終止符を打つため、今回、初めて新書の感想記事を書いてみます。

 

・本文

 

 さて、今回感想を書くのは、辻田真佐憲著の『ふしぎな君が代』です。私がこの本を知ったのは、よく聴いていた今は無きタマフル(ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル)で辻田さんをゲストに呼び、本書に端を発する「君が代特集」をしていたためです。聴いていて、「そういえば私も君が代については何にも知らないな」と思ったので、自らの無知を正すために読みました。

 

 ここで、本書を読む前の私の「君が代」の知識を書いておくと、大きく2つのことしか知りませんでした。1つは「作曲者は外国人」2つ目は「歌詞は古歌からとった」です。しかも、本書に書いてあるように、私自身も高校を卒業してから全く「君が代」を歌っておらず、「聴く」ものとして認識していました。つまり、何も知らないに等しかったわけです。

 

 幻冬舎出版の本で、題材が「君が代」。これだけ聞くと保守的な本なのかと思われるかと思いますが、違います。また、リベラル的な「君が代反対」な内容なのかと言えば、そうでもない。本書は、賛成にも反対にもどちらにも距離を置いて、「君が代」の歴史を記したものになります。より具体的に書くならば、本書の内容を借りて、以下の6つをメインに書いています。

 

 ①何故この歌詞が選ばれたのか

 ②誰が作曲したのか

 ③いつ国家となったのか

 ④いかにして普及したのか

 ⑤どのように戦争を生き延びたのか

 ⑥なぜいまだに論争の的になるのか

 

 この6つを膨大な資料と、それに基づく緻密な調査によって解き明かしていきます。文体も非常に平易で読みやすいです。

 

 本書の中で特に面白かったのは、「君が代」が急ごしらえで作られたという事実。しかも、国歌でありながら、宮内省海軍省という一部の省が中心となり作成したとのこと。さらにそこから国民に普及して定着する過程も面白く、音楽雑誌と教科書が大きな影響力をもったとのこと。

 

 私はこの成立と普及の過程は非常に日本らしいなと思いました。というのも、明治政府自体も急ごしらえで作り、そこから日本は一気に近代化を進めていきました。しかしそれは、夏目漱石が指摘したように、外面上の近代化だったと思います。その急ごしらえ感が「君が代」の成立とダブります。しかも成立したものをコペルニクス的転換の発想でいい感じに解釈していくところなんかも日本っぽいなぁと思いますね。こういう意味でも、「君が代」は日本の国歌だと思います。

 

 何か小学生の読書感想文みたいになっちゃった。これ1冊で「君が代」についてはかなり詳しく分かるし、文体も平易なので非常におすすめです。日本人必読だと思います。

 

ふしぎな君が代 (幻冬舎新書)

ふしぎな君が代 (幻冬舎新書)

 

 

どいつもこいつもバカばっか。「真実」なんてクソくらえ!【アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル】感想

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85点

 

「バカばっか」

 

 鑑賞後、『機動戦艦ナデシコ』のルリルリよろしくこう思ってしまう本作は、ナンシー・ケリガン襲撃事件でスケート界を追われた女性スケート選手、トーニャ・ハーディングの半生を追った実録映画です。しかし、その内容はただの「実録映画」ではなく、トーニャ自身の人生のようにハチャメチャなものでした。

 

 というのも、本作は一応「関係者のインタビュー」を基にして作られているという体なのですが、肝心の各々の発言が食い違っているのです。例えばDVについてですが、母親のラヴォナは「殴ったのは1回だけ。しかもブラシでよ」と言います。また、夫のジェフは「殴ったけど、あいつも銃ぶっ放したんだ」と述べ、トーニャは「そんなことしてない」と言います。しかし、画面が変わると、ラヴォナは何十回もトーニャを叩いてますし、ジェフもガンガン暴力振るってるし、トーニャもトーニャで応戦して銃ぶっ放してるし、「全然違うじゃねえか!」というシーンの連続です。このように、本作はこういった矛盾を一切修正せず、劇中でそのまま行っているのです。しかも、登場人物が一々それらの矛盾に対して「突っ込み」を入れるわ、内容への注文を入れるわ、第4の壁を破って観客に向かって当時の失敗の言い訳をするわ、やりたい放題です。つまり、全員デッドプール状態。しかもこれらがかなりのハイテンポで進むため、「バカな奴らがバカな計略を立て、勝手に自滅してく」というブラック・コメディの様相を呈しています。ここから、『グッドフェローズ』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』が連想されます。

 

 ただ、全体的にはコメディ調ですが、起こっていることを1つ1つ吟味していくと、実にシリアスな内容であることが分かります。考えてみると、トーニャの人生が不憫すぎます。貧しい家庭に生まれ、そこから抜け出そうとする毒親にスケートを教えられ、そのために学校も辞めさせられ、やっと結婚して幸せ掴んだと思ったらそいつがDV男で、スケートもそこまで評価もされず、トリプルアクセルでようやく評価されたと思ったらバカな男どものせいでスケート界を永久追放。何だこれ。そしてそこから浮き彫りになってくのは、マスコミと、それに乗っかる大衆批判、そして固定的なイメージに翻弄される女性という、結構真面目なものです。

 

 本作では、登場人物が各々の「真実」を語ります。それらは上述したように、それぞれ食い違っています。しかし、世間的な「真実」は「あの襲撃事件はトーニャが仕組んだんだ」というもの。そしてそれはトーニャの上述の過去や各々の証言を無視し、「何となく」作られたもの。トーニャは「世間には悪が必要なのよ」と言っていますが、まさにこれです。最初は笑って見ていたのですが、中盤でトーニャが「あんたたちよ」と観客に向かって言ったシーンでハッとしました。「あぁ、そういえば俺も大衆の1人だなぁ」と。

 

 本作は最終的に各々の人物の証言を採用し、世間とは違った「真実」を描き出しました。しかし、そんな「真実」にもトーニャは、というか本作は「クソくらえ」とばかりに中指を突き立て、何なら突き上げています。「これが真実よ。どう、満足した?」とばかりに。ラストのタイトル『アイ、トーニャ』が、彼女の芯の部分を表しているようでした。

 

 「真実」を多面的に描き、1本の映画として仕上げた手腕だけでも驚嘆しますが、他の部分も素晴らしい。特にカメラワークです。終始動いていて、非常にダイナミック。ジェフが出ていく下りなど、動きも大変凝っています。あそこは痺れた。しかもスケートのシーンは、ずっと彼女にカメラが着いて行って、まるでアクション映画です。これだけでも満足です。

 

 役者陣も最高でした。アリソン・ジャネイは圧巻の演技力でしたし、子役のマッケナ・グレイス、「ウィンターソルジャー・バッキー」ことセバスチャン・スタンも素晴らしかった。ですが、何といっても、マーゴット・ロビーには驚かされます。こんなに上手い役者だったんか。ラストのトーニャの苦悩の表情は素晴らしかったです。あそこだけで泣きそう。総じて、とても面白い映画でしたね。

今の時代、こんな熱量のある映画が観られるなんて!消えかけていた東映の「血」の継承【孤狼の血】感想

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93点

 

 『仁義なき戦い』『県警対組織暴力』にインスパイアされた小説を、東映が、白石和彌監督で制作する。これを聞いたとき、胸が高鳴ったのを覚えています。面白くないわけがない。今年最も楽しみにしていた作品でした。

 

 映画が始まって、まず現れるのは従来のCGを用いた「小綺麗な」三角マークではなく、往年の東映映画を思わせる泥臭く、粗さに満ちた三角マーク。ここから、本作はコンプライアンスなど気にせず、「撮りたいものを何をしてでも撮る」という往年の東映への回帰宣言が伺えます。そして映画は、「宣言したら実行あるのみ」とばかりに豚のクソ詰め、指詰めと言った壮絶なリンチから始まります。この開始10分に表現されているように、本作は、制作陣の「東映らしさを取り戻す」という「本気」がビンビンに伝わってくる傑作になっていました。

 

 原作は柚月裕子さんの同名小説。彼女は本作を『仁義なき戦い』『県警対組織暴力』に影響されてい執筆したと述べています。確かに全体的なトーンはまさにこの2作です。しかもそれに加えて、本作では白石監督のアイディアから、各所に両作品へのオマージュが見えます。上述のリンチシーンで出てくる竹野内豊はどう見ても『仁義なき戦い 広島死闘篇』の大友勝利ですし、その大友の名台詞「オメコの汁で飯食うとるけぇの!」への返答ともとれる台詞もあります。また、冒頭の新聞を用いたナレーションは『仁義なき戦い』シリーズの定番ですし、取調室での暴力シーンは『県警対組織暴力』における川谷拓三の超有名なシーンが基でしょう。

 

 これらの外見上の相似点だけで終わらず、本作には往年の東映映画の「熱」もそのまま残っています。照り付ける日差し、役者たちの汗、血、そして痛みや怒り、それらが全てスクリーンから伝わってきます。つまり、本作の登場人物たちは、スクリーンの中で血を通わせた人間として「生きて」いるのです。

 

 ここまで書くと、本作は『仁義なき戦い』「県警対組織暴力』の二番煎じかと思われるかと思いますが、本作で最も素晴らしいと思った点は、本作がこれらの要素を保ちつつ、きちんと現代的にアップデートしている点だと思います。

 

 上述した2作は、菅原文太演じる主人公が信念を貫き活躍するも、結局は大きな力の前になす術も無くなってしまう様を描いていたと思います。そしてそこで繰り広げられる抗争を戦争に見立てることで、疑似的な戦争を描写していました。そこでの暴力は、非常に虚しいものでした。その背景には、監督・深作欣二や脚本家の笠原和夫の戦争体験があったのかなぁと思います。こう考えると、本作は戦後ならではの作品だったと思います。

 

 そして、本作は様々な勢力の正義が入り乱れる中で、自らの信念を孤高に貫き通した男を描き、全体的に「正義」の話にしていました。これは、単純な価値観では割り切れず、複雑化する現代と非常にマッチしていると思います。

 

 主人公は2人。ます1人は役所広司演じる大上。そして彼とコンビを組むのが松坂桃李演じる日岡役所広司は劇中でやっていることは菅原文太と似ています。日岡は、狼たちが跋扈する「戦場」に放り込まれた我々の分身。映画は彼の目を通して語られていき、観客は彼と共に真相を知っていきます。彼の見方が変われば、我々の見方も変わるのです。この視点の転換がとても丁寧に描かれていたと思います。日岡も、最初は「警察」という「組織」に属していたのですが、大上の考えを知るうちに警察に疑問を持ち始め、遂に「孤狼」として覚醒します。「人を殴るためにやっていなかった」空手を「豚小屋」という戦場で使うあのシーンには爽快感すらあります。

 

 ただ、気になったことが多かったのも事実。正直、真木よう子さんが説明役で終わってしまっているのが痛い。まぁ、さすがの存在感なので、そこまで気にならないですけどね。また、終盤でややエモーショナルな内容になり、スローモーションが多用されたこともちょっと気になりました。

 

 ラストは素晴らしかったです。特に終わり方が半端なくいい。あそこは、「血の継承」です。それは劇中の「孤狼の血」の継承であることは言うまでもありませんが、同時に、往年の東映から今の東映への、そして役所広司というベテランから松坂桃李という若手への、「血の継承」です。最後で燃え上がった火が、消えかけていた「東映」の火の復活を高らかに宣言していると思います。

 

 私の『仁義なき戦い』シリーズの感想貼っときますね。

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良質な大河ドラマに匹敵する面白さ。【銀河英雄伝説(旧作OVA版)】感想

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 日本アニメの歴史にその名を残す傑作アニメ。このブログでは、過去に劇場版2作(『我が征くは星の大海』、『新たなる戦いの序曲』)の感想をアップしてきました。今回は本伝の感想になります。劇場版は尺の問題もあり、局地的な戦いにクローズアップしていました。しかし、この本伝は連続シリーズということで、『銀河英雄伝説』の膨大な設定とキャラを見事に描き、「架空のSF史劇」として非常に面白い作品になっています。

 

 全話視聴して、まず驚くのが作中の歴史の説得力。私は歴史にはあまり精通していないため、第40話「ユリアンの旅 人類の旅」などで語られる人類の歴史が、実在の歴史と妙にシンクロして見えます。まぁ、色々と「どういうことなんだ?」な点はあると思いますけど。

 

 本作で語られる歴史は、『機動戦士ガンダム』と『スター・ウォーズ』を足して2で割った感じです。ですが、本作の場合はニュータイプやフォースといったSFチックな設定は出てこず、あくまで現実的な「民主主義と専制君主制の興亡」を中心に描いています。故に、本作の歴史上の出来事は現実の歴史を基にしたであろう内容が結構出てきます。さらに屋良有作さんの落ち着いたナレーションも相まって、独裁者ルドルフが生まれる過程や、理想を持った民主主義やゴールデンバウム王朝が堕落していくさまが非常にリアルに感じられ、史実を基にした良質な大河ドラマを見ている気分になります。

 

 さらに本作が優れている点は、本作が「人類の歴史は螺旋階段である」ことをきちんと描いていることです。雑に本編の展開を追ってみると、本作以前の歴史は、ルドルフの独裁に抵抗した共和主義者たちがゴールデンバウム王朝を脱出。そして自由惑星同盟を作り、以後ずっと戦争状態を続けているというもの。一方、本編ではどうかと言えば、ヤン・ウェンリー一派は、民主主義の種を残すためにローエングラム王朝を離れ、イゼルローンに立て籠もります。この2つは、どう見ても意図的なシンクロでしょう。

 

 しかし、同じことを繰り返すだけではなく、きちんと上っていくことも示唆されています。立て籠もるまでは同じでしたが、彼らはローエングラム王朝ときちんと対話し、王朝の中に民主主義の種を残すことに成功するのです。これは、ずっと戦争状態だった過去と比べれば大きな進歩です。ここから、人類は同じ事を繰り返しながらちょっとずつ進歩していくしかないこと、そして、その「進歩」には多大な犠牲を伴ってしまうことが示されます。

 

 ここまで書くと、SFにする意味があまりない気もしますが、私はむしろ歴史が今と地続きであるが故に、SFという要素を一旦置くことでフィクション感を増大させることに成功しているというか、このおかげでゴールデンバウム王朝のあの時代錯誤甚だしい感じや、自由惑星同盟の今より若干進歩した感じに説得力を持たせられていたのではないでしょうか。後は、こうすることで、今の時代と少し切り離して考えられる寓意性みたいなものもできた気がしないでもない。

 

 この完成度の高い歴史ドラマをさらに面白く、深くしているのが膨大なキャラクター。あまりに多くのキャラが出てくるため、声優を1人1キャラクター毎に当てたら現役の声優が起用できなくなってしまったのは有名な話です。

 

 本作のメインテーマは民主共和制と専制君主制というイデオロギーの対立だと思っているのですが(違ったらすみません)、描かれているのは国家ではなく、個々のキャラクターです。ほとんどのキャラに厚みがあり、思想を体現させています。最も分かりやすいのがラインハルト・フォン・ローエングラムヤン・ウェンリーの2人。この2人は、それぞれの思想を体現した存在です。

 

 まず、ラインハルトはよく言われるように、完璧超人です。戦略・戦術の双方に長け、カリスマ性を有し、政治的取引もし、個人の戦闘能力も高い。さらには人間としての器も良くできており、およそ駄目なところが無い。

 

 しかし、彼には対等な「友」と呼べる人間がキルヒアイス1人しかいません。後の人物は、ミッターマイヤーやロイエンタールでさえ、「友」ではなく、「臣下」です。つまり、彼は唯一絶対の存在であり、「理想的な専制君主」を体現した存在と言えます。

 

 対して、ヤン・ウェンリーは全く逆の人物として描かれています。キャゼルヌから「首から下はいらない」と毒舌を吐かれるように、戦術立案・実行能力に抜群に秀でているだけで、権謀術中も巡らせないし、戦闘力も無い。さらに好きな歴史についても、学者レベルとは言えないし、果ては家の中もユリアンがいなければゴミ屋敷など、控えめに言っても駄目人間です。彼にとっては皮肉ですが、戦争が無ければ、彼は野垂れ死んでいてもおかしくはありません。

 

 しかし、彼には妙な人望があり、人が集まってきます。それらの人間をヤンは、「部下」でも「臣下」でもなく、「家族」または「友」と呼びます。そして彼らは、様々なエキスパートです。キャゼルヌは事務処理能力に秀でていますし、アッテンボローは艦隊指揮能力、シェーンコップは陸戦に秀でています。ヤンは、自分では何も持っていない代わりに、彼らに助けてもらっているのです。だからこそ、彼亡き後も、彼の遺志を継いだユリアンがトップになることで、組織を維持できるのです。これは彼らが言う民主制を体現していると思います。

 

 このように、主人公2人だけでも語れる本作ですが、周りのキャラも負けないくらい強い個性を放っています。そして例外なく、多面的なのです。例えば、作中屈指の悪役であるトリューニヒト。民主主義が生んだ怪物ですが、妙に魅力的なのです。「悪」として。彼に関して興味深いのが、退場方法です。結局、彼はロイエンタールによって射殺されるという民主主義とは最も遠い方法で退場しました。民主主義というシステムでは彼は倒せなかったことを考えると、実に皮肉な結末です。終盤で明らかにされる事実も相まって、民主主義の1つの限界を感じさせてくれるキャラです。後はラングとか、オーベルシュタインとかですね。これが作品全体に俯瞰的な視点を作り、上述の「大河ドラマ感」を高めています。

 

 本作は上記のように、どちらの陣営にも過度によることなく、どちらにも正義や考えがあることを描いています。民主主義に対しても、できるだけ客観的に描いていると思います。そもそも本作のことの発端は、堕落した民主主義なのですから。では専制君主制の方がいいのか?と問われれば、それにも「否」と答えています。確かにラインハルトの様な人物が統治していればいい。しかし、もしその有能な統治者が死んでしまったら?今度はゴールデンバウム王朝に逆戻りです。そうならないために、民主制のような国民が権力者を抑えるシステムを用意しておくことが必要なのです。しかしそのためには、国民が責任を持たなければならないのでしょうね。それを忘れたから、本作で人は大量の犠牲を払わなければならなかったのだから。・・・って、何でこんなこと書いてんだ。

 

 結論としては、110話という長い話数が全く苦痛にならない傑作だと思います。むしろこの長さのおかげで史劇感が増していると思う。

 

 過去にあげた、劇場版の感想です。

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MCUの総決算としてヒーローへ突きつけられたもの【アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー】感想 ※ネタバレあり

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 94点

 

 

 『アイアンマン』から始まった、MCUの10年間の総決算。公開されるやいなや世界中で特大ヒットを飛ばし、観客の評価も上々。世界中でこれまで積み上げてきた熱が一気に燃え上がっている気がします。私としてもそんなビッグ・ウェーブに乗るため、去年8月くらいから半年かけてMCU作品を鑑賞し、本作に備えてきました。

 

 観終わって、しばし呆然としました。比喩表現ではなく、本当に口をポカーンと開けて、エンドクレジットを眺めていました。かなりの衝撃を受けましたね。

 

 しかし、結末だけで呆然としているわけではなく、それまでの中身もとても面白く、また、アクション映画としても非常にハイレベルな作品で、上映時間は2時間30分超ですが、体感時間的には1時間くらいでした。

 

 というのも、本作は見せ場、山場の連続で、その上にストーリーが止まらず、どんどん進んでいくためだと思います。ヒーロー達の関係性は、これまで培ってきたものもありますし、間の期間は台詞ではなく、彼らのアクションで主に語られます。これは敵側も同じです。

 

 本作の敵は、最凶最悪の存在、サノス。「宇宙の均衡を保つ」ために全生命体の半分を虐殺しようとしています。書いてしまうと、本作はサノスの映画です。これまでの『アベンジャーズ』作品では考えられないくらいサノスのキャラを掘り下げていきます。

 

 冒頭、話はいきなり『マイティ・ソー/バトルロイヤル』の直後から始まります。ここで映されるのは、アズガルドの難民を乗せた船が壊滅させられているという衝撃的かつ、絶望的なシーン。本作は全編に亘って、この絶望感のようなものがあります。そして、ここではサノスの圧倒的な強さも示されます。何といっても、「アベンジャーズ」の2強であるソーとハルクが一方的にやられているのですから。ハルクに至っては、同じ土俵に立たれたうえで、サノスにボコボコにされています。この時点で、「こいつヤバい」と観客に認識させていますね。

 

 その他にも、サノスが何故、この思想を持つようになったのか、そして、計画を実行するための「覚悟」が丁寧に語られていきます。そこで得られるサノスのキャラクターは、思った以上に人間臭い。愛する者がいて、それを失ったときに悲しみ、太陽を美しく思う心も持っています。

 

 このサノスの物語と並行して、ヒーロー達の活躍が描かれていきます。しかし、サノスとは対照的に、そこにはドラマが希薄です。終始サノスへの対応に終わっています。にもかかわらずあまり気にならないのは、これまでの積み重ねがあることと、『シビルウォーキャプテン・アメリカ』でも示された、ルッソ兄弟の驚くべき交通整理力の賜物でしょう。全てのヒーローに見せ場が用意されていますし、アクションシーンも一々凝っていて、且つ分かりやすく、観ていて全く退屈しません。

 

 また、ヒーローの登場シーンなど、「ヒーロー映画」として我々が観たいものをかなりカッコよく見せてくれます。キャップの登場シーンは最高でした。

 

 ここまで考えて、本作の特異な点が浮かび上がってきます。それは、本作がこれまでの『アベンジャーズ』シリーズと構造が全く逆だということです。これまでのシリーズは、紆余曲折の末に彼らが団結する姿を描いてきました。故に、敵側の描写は全くなく、完全にやられ専門でした。しかし、今回は敵を重点的に描き、アベンジャーズの描き方はどこか書割り的な感じがします。しかも、今回彼らは団結していないのです。よく思い返してみれば、スタークとキャップは会ってないし、3つのグループに分かれて戦っています。シリーズ恒例の皆で円を作ってそれをカメラが移動して捉えるアレが無い。多分ここら辺は次作に持ち越しでしょうね。ルッソ兄弟も、「映画秘宝」のインタビューで、「サノスを倒すのに必要なのはもちろん団結だ」と言っているあたり、確信犯なのでしょう。

 

 また、ルッソ兄弟に着目すると、本作で描かれていことも見えてくる気がします。彼らは「映画秘宝」のインタビューでこう述べています。

 

『ウィンター・ソルジャー』で始めたストーリーを、これらの映画で終えるんだ

  

それでは、ルッソ兄弟が過去2作で描いてきたことは一体何だったのでしょうか。私はそれは、「正義のぶつかり合い」だと思っています。『ウィンター・ソルジャー』ではキャップの正義とS.H.I.E.L.Dの正義、『シビルウォー』ではキャップとスタークの正義がぶつかり合いました。そして本作では、サノスの「正義」とアベンジャーズがぶつかります。しかし、アベンジャーズは、サノスの圧倒的な力の前に倒れ、サノスの正義が通されます。ここで、これまでのシリーズの価値観がひっくり返る気がします。アベンジャーズ自身も自分たちの「力」で物事を押し通してきた感があるためです。そんな彼らが負ける。つまり、アベンジャーズの否定になっている気がしなくもないのです。

 

 では、サノスが正しいのか、と問われれば、そんなことはない。複雑化する世界では、力で全てを決定し、押さえつけることは肯定できないでしょう。しかも、彼は個人としては愛する者を、さらには宇宙の生命体の半分を犠牲にしているのです。「犠牲の上に成り立つ正義」これを肯定できるのか。

 

 そして、この問いは、アベンジャーズにも突きつけられます。ヴィジョンという存在に対してです。この問いに対して、次作でどのような回答がなされるのか。私はそこを注視したいと思います。