暇人の感想日記

映画、アニメ、本などの感想をつらつらと書くブログです。更新は不定期です。

2019年冬アニメ感想⑧【どろろ】

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 私が原作と出会ったのは、小学校低学年の頃でした。当時の私は、親がよくやる「自分の好きなものを子供に見せる」という教育の一環で手塚治虫原作の「鉄腕アトム」「ブラックジャック」を読んだばかりでした。私は「アトム」にはそこまでハマれなかったのですが、「ブラックジャック」にはドはまりし、「手塚治虫って面白い作品を書くのだなぁ」と意識し始めていました。そんなとき、親戚の家に置いてあった「どろろ」を発見したのです。

 

 4巻読んでみて、私はすぐにハマりました。生まれる前に奪われた体の欠損部分を取り戻すというシンプルな内容も当時の私的には分かりやすかったですし、何よりどろろと百鬼丸というキャラクターが魅力的でした。生まれる前に体の48カ所を魔物に奪われるという悲劇を背負いながらも、その運命に真っ向から立ち向かっていく百鬼丸と、同じく悲劇的な生い立ちを持ちながら前向きに生きるどろろ。描かれている戦国時代は過酷であり、無残帳の下りは「こんなひどいことがあるのか」の連続でした。しかも2人はどこに行っても迫害されます。このどこにも行く当てのない2人が繰り広げる会話や活劇に、どうにも私は共感していたのです。

 

どろろ 1

どろろ 1

 

 

 また、これは不謹慎かもしれませんが、純粋に百鬼丸がカッコよかった。欠損部分を補うためにサイボーグのように自身の体を作り、両手が刀の鞘代わりになっていて、いざというときは両手を刀にして戦うという設定は、小さかった私にはカッコよく映ったのです。

 

 これくらいには思い入れがあったので、アニメ化が発表されたときは本気で心配していました。「大丈夫なのか?」と。題材自体には問題ありません。原作の内容はどの時代でも通じるものだと思っています。しかし、問題は近年制作された手塚先生原作作品の出来でした。他の方が書かれたスピン・オフはともかく、手塚作品のアニメ化となると、途端に微妙な出来になってしまうのです。具体例を出すと、TVアニメ版「ブラックジャック」とか、「火の鳥」とか、映画「ブッダ」とかです。しかも「どろろ」にいたっては謎の実写版という代物もあります。これくらい前例があれば不安になるのも致し方なしです。

 

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 しかし、ティザーのPVが公開され、制作会社がMAPPAであること、そしてPV自体がかなり出来が良かったことから、印象が変わります。その後、メインスタッフ、キャラデザ、あらすじが公開され、一抹の不安を覚えながらも視聴した次第です。

 

 24話全てを視聴してみたところ、個人的には満足できる出来の作品でした。 原作の最終的なテーマはそのままに、原作にあった「隙」を上手く独自設定で補完し、作品を深めていたと思います。

 

 アニメ版について書く前に、原作漫画について書きたいと思います。原作漫画は「48匹の魔物を倒す」という壮大な内容に対して4巻という巻数の少なさが示している通り、打ち切り作品です。勘弁してくれよと思いますが、手塚先生の熱意が薄れてしまったらしいんですよね。だから最後に鵺を出して、どろろ一揆を率いて醍醐景光を倒して終わっていました。

 

 本作はこの中途半端に終わってしまった原作にさらにオリジナル要素を入れて補完し、深掘りし、上手くアレンジしています。

 

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 まずは、作品の根幹となる「百鬼丸が体を取り戻す」というもの。原作ではそれ自体を普通に「良いこと」として描いていましたが、本作では次の3つの点で深掘りしています。

 

 1つ目は醍醐景光の、鬼神との契約です。原作では醍醐景光はただ天下が欲しいがために百鬼丸を鬼神に差し出しました。しかし、このアニメ版ではこれに加えて、この鬼神との契約のおかげで領地が栄えているという点を強調し、百鬼丸が体を取り戻すごとに領地が苦しくなっていくという設定を追加しているです。これによって、醍醐景光のキャラクターにより深みが出たように思いますし、百鬼丸は「何かを犠牲にして、体を取り戻している」という点が強調され、ストーリーそのものがよりドラマチックになっています。

 

 そして2つ目は、「体を取り戻す」ことで、まだ無垢だった百鬼丸がこの世界の残酷さを知っていくようにしている点。原作では、体の一部を取り戻すことを純粋に「良いこと」として描いていることとはまるで逆です。例えば、百鬼丸は耳を取り戻したとき、初めて聞いた声は自分が斬った男の妹の泣き声でしたし、声が戻ったときは、最初に発したのは痛みからの苦しみの叫びでした。ここは、世界そのものの苦しさや痛みを象徴しているシーンな気がして、素晴らしかったです。このように、このアニメ版では百鬼丸が体を取り戻すことを単に「良いこと」として描かず、「世界の残酷さ」を知っていく過程として描いているのです。

 

 最後に、3つ目はキャッチコピーにもなっていた通り、百鬼丸を「人と鬼の狭間」で揺れ動く存在として描いた点。原作にもあった通り、「どろろ」という作品は百鬼丸が人間になっていく話です。しかし、百鬼丸の道は、寿海も言っていた通り、血にまみれています。何かを犠牲にしなければ体は取り戻せないという点を強調しているため、狂気に押しつぶされ、鬼神になるのか、それとも「人」になるのかという点が強調されます。

 

 そしてこの点は、作中の人物にも当てはまります。醍醐景光は領地のためとはいえ、息子を鬼神に差し出すという人の道に外れたことをしましたし、作中で出てくる権力者や、恐怖に呑まれてしまった人間、侍も非道な行為をしています。こういった人たちを描くことで、「人」が「人」として生きていくというテーマが浮かび上がってきます。

 

 

 そんな百鬼丸とは対極の位置にいるのが、百鬼丸の実の弟、多宝丸。原作では何となく嫌な奴程度の描き方でしかなかった彼ですが、このアニメ版だとかなり深く掘り下げて描かれています。鬼と人の狭間で揺れ動きながらも、どろろとの触れ合いで「人」となっていく百鬼丸と対照的に、多宝丸は最初から「人」であり、睦と兵庫という友までいるのに、鬼神に魂を売り、「人」の道を外してしまうのです。この2人のキャラの対比の仕方は、同じく手塚治虫先生原作の「火の鳥 鳳凰篇」の我王と茜丸を彷彿とさせます。インタビューを読むと、古橋監督は他の手塚漫画からエッセンスを盛り込もうと「火の鳥」とか「ブッダ」を読んだらしく*1、ひょっとするとこの対比はこのせいかもしれません。

 

 これらの点から、本作では「国家のために個人を犠牲にするのか、それとも個人の命のために国家を犠牲にするのか」という問いかけがなされていると思うのです。これの縮小版が14話と15話だったと思います。24話の百鬼丸の「腕」が戻るシーンは、この対比をしっかり描いた名シーンだと思います。

 

 このように、百鬼丸と多宝丸だけ見ても、原作とかなり変わっています。しかし、これは原作を尊重していない改変ではなく、寧ろ原作にあったテーマをさらに深く描くための改変となっている点が本作の素晴らしい点です。原作は、急だったとはいえ、一応「侍という権力との戦い」で幕を閉じます。今回のアニメ版では、そこをかなり丁寧に描き、「搾取される側」のエピソードを紡いでいきます。そして、百鬼丸が「奪われた」姿を農民が搾取されてきた姿に重ね、それを取り戻す百鬼丸どろろが傍らで見続けたことで、「自分たちのものをは自分たちで守る」という自治の考えに至るという作りになっているのです。確かに、侍や権力に身を任せた方が国家の運営は楽かもしれない。けど、それでは自分たちは搾取されるだけ。「誰かの犠牲の上に国家を成り立たせる」のではなく、自分たち自身が国家を作っていく。この流れは私は舌を巻きました。

 

 本作は、百鬼丸が「人」になるまでの話でした。体を取り戻す過程で世界の残酷さを知っていく百鬼丸ですが、それでも全てを取り戻してその手でどろろを抱き、本物の目で見た世界の感想は、「きれい」でした。この時、百鬼丸は本当の意味で生まれたのだと思います。

 

 本作がさらに抜け目がないのが、原作では想像するしかなかったどろろと百鬼丸の関係を示している点。「人」に戻った百鬼丸どろろと再会することを予期させるあのラストは締めとして素晴らしかった。

 

 このように、本作は手塚治虫の原作をより現代的に、深く解釈した作品だと思います。私は素晴らしいと思いました。