暇人の感想日記

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闇の中で光を見つける物語【THE BATMANーザ・バットマンー】感想

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93点
 
 1939年に登場して以来、「スーパーマン」と並び、DCコミックスはもちろん、アメコミ全体を代表する存在となっているバットマン。本作は、「バットマン単独作品」としては『ダークナイト ライジング』以来、実に10年振りとなります。監督はリブート版『猿の惑星』シリーズや、『クローバーフィールド/HAKAISHA』のマット・リーヴス。本作は、ヒーローものの1作目ではあるものの、所謂「オリジンもの」とは少し違い、ブルース・ウェインバットマン活動を開始済みで、2年が経っているという設定。メインのヴィランリドラーですが、他にも、ペンギンやキャットウーマンも出演します。
 
 ブルース・ウェインは、幼い頃に起こった両親殺害の復讐のために、夜になると犯罪者たちを力でねじ伏せる「バットマン」として活動していた。彼が活動を始めて2年目、ゴッサムシティで、街の権力者を狙った連続殺人事件が起こる。犯人の名前はリドラー。恐るべき知能を持ち、現場に「なぞなぞ」を残していくシリアルキラーだ。バットマンはゴードンと協力して「なぞなぞ」を解き明かし、リドラーを追う。だが、その過程で、ゴッサムシティの暗部、そして彼の父親が持つ暗部が浮き上がってゆく。全てが闇に包まれたこの街が、崩れようとしていた・・・。
 本作を観てまず印象に残るであろう点は、画面の圧倒的な「闇」です。基本的に、シーンのほとんどが夜という点も大きいのですが、昼間のシーンでも、画面はどこか薄暗く、映画全体のトーンもどこか陰鬱です。この闇は、「映画館」という特別な空間でなければ味わえないものであり、これだけでも、本作は「映画館で観る」価値があります。本作におけるゴッサムシティは、腐敗と犯罪の温床であり、「闇」はこの出口の見えない、混沌としたゴッサムシティの暗部を象徴しているかのようです。そしてもう1つ、重要な要素として、画面全体の闇は、ブルース自身の心の闇も表していると思います。
 
 マット・リーヴス監督は、本作におけるゴッサムシティを、『チャイナタウン』のように、登場人物の1人として扱おうとしたそうです。この点は過去のバットマン映画とは一線を画していると思っています。これまでのバットマン映画(バートン版、ノーラン版)においては、ゴッサムシティというのは、「バットマンが活躍するフィールド」としての役割が強かった気がしていて(つまり、バットマンというキャラが存在しうるフィールド)、「街」そのものが主人公の心情を表している、というのは初めてなのではないかなと思います。この点では、本作は『カリガリ博士』のような、表現主義的、と言えなくもない、かもしれません。
 
 マット・リーヴス監督は、本作に大きなインスピレーションを与えた作品として、アメコミの「バットマン:イヤー・ワン イヤー・ツー」を挙げています。こちらはタイトル通り、バットマンの活動1年目と2年目に焦点を当てた作品で、モノローグの多様、どこか陰鬱な雰囲気など本作から影響を受けたと思しき点をいくつも見つけ出すことができます。
 さらに本作からは、様々な映画からの引用を見ることができます。まず、本作では、混沌としたゴッサムの中で、シリアル・キラー/リドラーとの戦いが描かれます。これを聞いて、映画ファンならば、真っ先に『セブン』を思い出すと思います。マット・リーヴス監督は、本作に関しては、過去作から様々な影響を受けたと公言していて、残念ながら『セブン』は入っていないのですが、フィルム・ノワールから大きな影響を受けたと公言しています。思えば、『チャイナタウン』は探偵が街の大きな暗部に踏み入っていく作品です。また、権力者や警察の腐敗、という点からは、『大統領の陰謀』の影響を公言し、言及こそはしていませんが、『セルピコ』を彷彿とさせます。そしてこれらはただの引用に終わらず、「最新のバットマン映画」をして昇華されるよう調整がなされています。つまりは本作は、アメコミをそのまま「映画」にするためにはどのような作品を引用すればよいのか、という思考錯誤を見ることができる作品なのです。
 
 では、以上のような引用がどのように昇華されているのか、というと、リドラーの背景を貧困層として、をバットマンの合わせ鏡にすることで、「バットマン=ブルーズ・ウェイン」という大富豪との対比をさせています。リドラーシリアルキラーであり、何人も人を殺してきました。しかし、その動機は「ゴッサムを浄化する」ためであることが捜査で判明します。これはバットマンと同じです。しかし、バットマンが日々やっつけているのはチンピラであり、しかも執拗に暴力をふるい、助けた側にも怖がられる始末。対して、リドラーが殺したのは、言ってしまえば、ゴッサムのダニであり、権力に居座り、甘い汁をすすっていた奴らなのです。「チンピラをやっつけるコウモリのコスプレをした大富豪」と、「腐敗した権力者を一掃したシリアル・キラー」。犯罪を正当化したくはありませんが、どちらが「ダークヒーロー」かは一目瞭然かと思います。
 
 しかも、貧富という点を見れば、ブルース・ウェインは、その富を貧しい人に分け与えようとはせず、チンピラを倒すために使っています。これはブルースがまだ未熟だからという点がありますが、ノブレス・オブリージュな精神のバットマンにはまだ遠いわけです。ちなみに、この「貧困層の怒り」という要素は、(監督は影響ないって言ってるけども)『ジョーカー』を彷彿とさせますし、「社会の上と下」が分断され、「下」の人間が足を引っ張り合っている、という点は『パラサイト 半地下の家族』を彷彿とさせます。
 この対比は、バットマンという存在の批評にも繋がります。『レゴバットマン ザ・ムービー』でも弄られていましたが、バットマンはコウモリのコスプレをして、夜な夜な暴力をふるう犯罪者です。この点を本作は意識的にとりこんでいて、現場にスーツで来るバットマンが妙におかしいし、中盤のカーチェイスでは、周りの車を破壊しまくり、爆発させまくってペンギンを追い詰めます。ぶっちゃけ、外部の人間からしたら、ペンギンよりバットマンの方がよっぽど悪役です。これはブルース・ウェインの自警活動の動機が、「正義」よりも「復讐」にあるからだと思います。そんな彼が、自身の合わせ鏡であり、同じくゴッサムに復讐し、変えようとしているリドラーと対峙し、「復讐」では何も変わらないと悟ります。だからこそ、ラストに彼はあの行動をとったのだと思います。復讐で悪を執拗にやっつけるのではなく、目の前の人を救助する、ということを。そしてそのとき、バットマンゴッサムシティという、闇に包まれた街に初めて灯りをともせる「希望=ヒーロー」になったのだと思います。これは、デント殺しを被ることでデントという希望を残し、自らがダークナイトとなる事で街を護った、『ダークナイト』と真逆の結末です。
 
 この点は、現代において、非常にタイムリーな内容だと思います。貧富の差が拡大し、新型の感染症が蔓延し、さらにはロシアという大国がウクライナ侵略戦争を仕掛けた今、世界は混沌の中にあります。それはゴッサムシティを覆っていた、出口の見えない闇そのものです。序盤のバットマンのように、もはや「悪」をやっつければ世の中が変わる時代は終わってしまった。ヒーローにできるのは、目の前の人を救い、民衆が変わろうとするのをサポートすることくらいなのかもしれない、ということを考えました。つまり、本作は、混沌とした闇の中から光を見つける物語であると言えるのです。余談ですが、これがブルースの救済にも繋がってくるので、ひょっとしたら本作はセカイ系の系譜にあるかもしれません。
 

 

符合する点が多い作品。

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ノーラン版バットマン

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