暇人の感想日記

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喪失と再生と、西島秀俊の「空虚さ」について【ドライブ・マイ・カー】感想

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94点

 

 濱口竜介監督の本作は、村上春樹の短編集「女のいない男たち」の中にある一編の同名小説をはじめとして、いくつかの短編を統合して原作としています。脚本は濱口監督と共同で大江崇允さんが務め、カンヌ国際映画祭において、脚本賞を受賞しました。これ以外にも、諸外国で小レースを席巻し、2021年度アカデミー賞において、日本映画史上初の作品賞を始めとする4つの部門にノミネートされるという大快挙を成し遂げました。

 

 舞台演出家の家福は、愛する妻である音と共にそれなりに幸せな日々を送っていた。しかしある日、家福が家に帰ると、音は突然亡くなってしまっていた。家福に1つの秘密を残したまま・・・。2年後、喪失を抱えた家福は広島国際演劇祭で「ワーニャ伯父さん」の演出を依頼され、愛車で広島へ向かう。家福はそこで寡黙な女性、みさきというドライバーと出会う。さらに、かつて音から紹介された高槻という男にも再会。「ワーニャ伯父さん」の演出を通し、家福の喪失と向き合う日々が始まる。

 

 濱口監督は、常に「コミュニケーション」を題材に映画を作ってきた方です。『ハッピーアワー』では30代後半を迎えた女性4人の友情がとある「秘密」が発覚したことで崩れ始めるという内容でしたし、前作の『寝ても覚めても』も2人の全く同じ姿をした男性を愛した女性の話で、これも胸に抱えた「秘密」が露呈することで関係性が一旦、完全に崩壊してしまう話でした。ちなみに、脚本のみを担当した『スパイの妻』も、「秘密」を抱える夫婦(及び国)の崩壊の話だったと思います。ここには常に、他者の理解/無理解というディスコミュニケーションがあったと思います。

 

 

 本作においてもそれは健在であり、最初のショットからそれは示唆されています。ベッドで寝ている家福と音のシーンで、起き上った音を捉えたファースト・ショット。家福から見た音は全身が影であり、抑揚のない話し方をしています。このショットの通り、音という「他者」は「分からない」存在として我々の目の前に表れます。しかもこの2人は職業上、生活そのものが「演劇的」に見えてしまいます。

 

 ウラジオストック演劇祭に旅立つはずが、飛行機の欠航によって一旦家に戻った家福は、音の情事を目撃してしまいます。家福はそこで何をするでもなく、動揺してその場を去ってしまいます。その後、ホテルで連絡を取ったとき、音が平然としているのを確認し、家福は、そして我々観客も、音の考えていることが分からなくなってしまいます。つまり、音はファースト・ショットのまま、「分からない」存在なのです。そんな中訪れる、音の死。これで家福と観客は、音の真意が分からないまま、生殺し状態になります。前置きが長くなりましたが、本作は、この「自らの気持ち」に目を背けていた家福が、そこに向き合い、自分の気持ちに折り合いをつける映画です。

 

 「妻の喪失に向き合う」映画として思いつくのは、近年では2016年に公開された日本映画『永い言い訳』です。『永い言い訳』では、本木雅弘演じる主人公が、自分の気持ちに気付くまでの話でした。本作もこの点は共通しているのですが、相違点としては、『永い言い訳』は、本木雅弘が全力で男性の持つ劣等感とか、めんどくさい生々しい感情を赤裸々に描いていたの対し、本作では「妻の真意」と共に、「家福の真意」も今一つ分からなくなっている点です。これは西島秀俊という俳優を起用した点が大きいと思います。西島秀俊という方は、巷で時々、「台詞棒読み」みたいに言われることがあります。しかも、演技をしているのだけど、どこか真意が分からない、空虚な印象を観客に与える俳優です。個人的に、この点が村上春樹主人公みたいだと思えます。本作はこの点に全力に全力で依拠した映画になっています。

 

 

 「西島秀俊の空虚さ」という点では、思いつくのはやはり日本映画で、2016年公開の『クリーピー 偽りの隣人』です。『クリーピー』では、基本的な話としては、西島秀俊演じる大学教授が引っ越した家の隣にいた香川照之というサイコパスと対決するというものなのですが、その実は西島秀俊こそが真のサイコパスであり、彼に囚われてしまった奥さん(竹内結子)の絶望で幕を閉じた作品でした。『クリーピー』も西島秀俊の空虚さに全力で寄りかかっている作品で、彼の持つ空虚さを悪用しまくった作品だと思います(故に傑作なのですが)。

 

 本作も基本的には同じではあります。しかし、ベクトルが全く異なります。本作では、西島秀俊の空虚さに依拠はしていますが、それは「真意の分からなさ」を体現させるためであり、彼の持つ空虚さと、濱口監督の、劇中で家福が行っていたような演出によって、「妻の喪失にどう思っているのか分からない男」を成立させているのです。だからこそ、度重なる問いかけと自問の末に、最後に台詞を吐露したとき、そこには大きな感動があるのです。

 

 ラスト、更にダメ押しとばかりに舞台上で「ワーニャ伯父さん」の最後の台詞で〆。「喪失を抱えたまま、この世界を生きよう」という決意に繋がります。この点も他の濱口作品に共通している点で、『寝ても覚めても』における清濁入り混じった川を唐田えりか東出昌大が横並びで眺めているショット、『ハッピーアワー』におけるラストにも観られます。つまりは、「人と人の間には秘密があり、例え関係性が変わってしまったとしても、それを抱えながらも、この清濁入り混じった世界で生きていかなければならない」という意志です。濱口監督作品はどれもこの「前向きさ」があるのですが、本作にも、それを読み取ることができるのです。

 

 

西島秀俊サイコパスぶりが観れます。

inosuken.hatenablog.com

 

監督の前作。

inosuken.hatenablog.com