暇人の感想日記

映画、アニメ、本などの感想をつらつらと書くブログです。更新は不定期です。

実写顔負けの「子どもの物語」【ぼくの名前はズッキーニ】感想

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78点

 

 世界各国のアニメーション映画賞で評価されたスイス・フランス合作のストップ・モーションアニメ作品。最初は観るつもりはなかったのですが、映画館で見かけたポスターにあった、『この世界の片隅に』の片渕須直さんが寄せたコメントを読んだことで興味を持ち、時間もできたので鑑賞しました。

 まず観て思った事は、アニメーションの素晴らしさです。元は固い人形であるはずなのに、観ているうちに、本当に彼らが生きている気がして、彼らに感情移入してしまうのです。『ゴッホ~最期の手紙~』でも書きましたが、アニメーションとは、「アニマ」を語源としており、そのイズムは「アニミズム」と言われ、「森羅万象に魂が宿っている」とされています。つまり、本当なら生命が無いものに生命を宿すことがアニメーションと言えます。この点において、本作はまさしくアニメーションを体現したと言えると思います。しかも、人形を使うことで、どこか客観性が生まれたと思っていまして、「普遍的な話」として観れた気がします。

 話の内容も面白いです。本作のメインは愛されなかった子どもが、自分と同じ境遇の子ども、そして理解ある大人と触れ合うことで自分の居場所を見つけていく物語です。そして、それ以外にも、ズッキーニの初恋や、友との友情、そしてヒロイン・カミーユの奪還劇とかもあり、てんこ盛りの内容です。しかもこれらの後にきちんとメッセージも伝えてきます。なので、娯楽作として観てもとても面白いのです。

 本作の子どもたちは、何らかの事情で親と離れた子どもたちです。故に、自分には居場所が無いと思っています。そんな彼らが、共に触れ合うことで居場所を見つける。そしてそれは大人も同じです。レイモンがそうでしょう。そんな彼らが互いを治癒しあうのです。ここから本作は、人間にはどこかに自分の居場所があるのだという普遍的な話にスライドしていったと思います。

 また、「愛されない」ことにもラストで救いがあります。あの赤ちゃんは親に、そして周りにどう思われて生まれてきたか。あそこで本来、子どもは愛されて生まれてくるのだと我々は気付かされるのです。ひとりぼっちではないのですね。

断ち切りがたい、血のつながり【犬猿】感想

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85点

 

 初・吉田恵輔監督作品。彼の作品はとても評価が高いので、いつか観てみたいと思っていたところで、本作が上映。とても面白かったですし、その手腕に感服しました。「兄弟のたまりにたまった鬱憤が最後に爆発する」だけの話を、こうもドラマチックに描けるとは。

 まず冒頭。本作はここから飛ばしています。完全に騙されました。ここから、吉田監督の性格の悪さが滲み出ている気がします。そしてその仕掛けから自然に始まる本編。それは兄弟姉妹の間で起こる無情の争いでした。本作ではこのいさかいによる鬱憤の蓄積が上手い。そしてそこから生じる微妙なパワーバランスの変化とか、相手に対して持っている複雑かつ面倒くさい感情の変化を違和感なく表現しています。これは脚本が素晴らしいということがあると思いますが、それと同じくらい、役者さんの演技の素晴らしさもあります。新井浩文さんの「自己中心的な男」ぶりとか、窪田正孝さんの平凡そうなんだけど、実は腹に一物持ってる感じとか、筧美和子さんのバカっぽさとか、江上敬子さんのできるけどコンプレックス抱えている感じとかを、多面的に演じています。彼らは彼らなりに相手のことを思って行動している、ということに説得力を持たせる演技もさすがです。

 これだけ書くとドロドロ劇かと思われるかもしれませんが、そんなことはなく、むしろ対照的に全編カラッとした雰囲気です。なので、作風としては喜劇ですね。ここら辺の手腕も恐ろしいですね。そしてこのいさかいの終わりには、キッチリと我々の涙腺を刺激してきます。内容はドロドロだけど雰囲気はカラッとしていて、最後には泣ける。あぁ良い映画を観た・・・と思ったのも束の間。最後の展開で一気に現実に引き戻されます。ここで、「そう上手くいくわけないだろ」という監督の声が聞こえてきて、結局、最初から最後まで監督の掌の上で踊らされっぱなしだったことに気付くのです。

 本作は兄弟姉妹のいさかいの話です。ですが、内容自体は、広く人間関係全般に言えるのではないでしょうか。生きていると、どうしても相手を妬んだりしがちですし、どうしても好きになれないこともあります。「人は生まれながらに平等ではない」とはよく言いますが、本当にそうだなと実感することもあります。私は、本作を観てそんなことを考えました。

 でも、赤の他人ならいくらかは良いのです。育ちの問題とかもあるかもしれませんから。ですが、本作の場合は兄弟姉妹。同じ母親から生まれたはずなのに、どうしてここまで違うのか。故により妬みが拡大していくのです。いや本当、1人っ子で良かったと、心の底から思える映画でした。

狂ったアクションのつるべ打ち【悪女/AKUJO】感想

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94点

 

 前代未聞のアクションが展開されると評判の本作。映画館で予告を観て、その常軌を逸したアクションに唖然とさせられ、公開されたら絶対に観たいと思っていました。

 

 監督のソン・ビョンギル氏は監督になる前、スタントマンになろうとして挫折した過去があるらしく、本作にはアクションに対する自身の想いのたけを思いっきりぶちまけたそうです。この執念の結果かどうかわかりませんが、本編には、予告編以上に常軌を逸し、狂っているとしか思えないアクションのつるべ打ちで、圧倒されてしまいました。

 

 まず冒頭、7分間のカチコミから凄い。『ハードコア』でも用いられた主観映像技術に、CG処理と編集で、疑似的なワンシーン・ワンカットを作り出し、スクヒが50人以上の敵を次から次へと倒していく様を見せていきます。これによって、観客はスクヒと一体化し、まさに映画の中に「放り込まれ」ます。そしてそこから「客観」に変わる視点の転換が非常に上手い。鏡に映ったスクヒを中心としてカメラが回転し、今度は『キングスマン』風味のアクションへと移っていきます。あそこまでふざけてはいませんけど。この流れが非常にシームレスに行われ、観ていて気持ちいいです。

 

 上記の一連のアクションだけで本作は生半可な作品ではないと確信しますが、アクションは、ここからさらに多くのバリエーションを見せてくれます。例えば、スクヒの初任務で起こったバイク・アクション。これも「バイクに乗ったまま日本刀を持った刺客複数とやりあう」という二次元でしか見たことが無いようなシチュエーションです。でも本当にやっています。どうやって撮っているんだと思って観てましたが、どうやらカメラマンもバイクに乗って撮ってたらしいです。何じゃそりゃ。しかも最後に川に落ちるし。

 

 他には派手さはないのですが、絵的に美しい狙撃のシーン。あれは素直にかっこいい。あれだけで料金分の価値ありだと思います。そしてその時の衣装が花嫁衣装でまた意味深なのですね。

 

 ここまで、カッコいい、狂ってるアクションを見せられ、感覚が麻痺してきます。「もうここまで見せられたらさすがに驚かないだろ」と思ったら、ラストですよ。あそこが作中で最もぶっ飛んでいるアクションでした。車のボンネットに乗り、斧を刺してバランスをとり、後ろ手で車を運転する驚異のチェイス・シーンです。もはやあれはターミネーターですね。そしてバスに乗り込んでからのやっぱり大乱闘。何なのこの映画・・・。昨年、『RE:BORN』を観て、こりゃ凄いと思いましたが、すみません、本作はあれ以上です。

 

 ここまでずっとアクションのことを書きましたが、ストーリーも展開が工夫されていて、とても面白かったです。

 

 内容は、スクヒという女性が1人の「悪女」となるまでです。作中、スクヒは2度「死に」ます。1度目は父親を殺され、「おじさん」という最愛の人の「武器」となった時、2度目は冒頭のカチコミの後、政府の暗殺者となった時ですね。本作では「過去に悪女となる過程」と「現在、悪女になる過程」の時系列を巧みにシャッフルして、並行して描いています。そして、ある一点でストーリーがつながることで、「真の敵」が分かる構図となっています。

 

 冒頭のカチコミの後に映ったスクヒの顔は非常に幼いです。それは政府に捕まってから整形され、今の顔になるのですが、それが彼女が少女から女になった気がしましたね。そして彼女は新たな人生を送り、別の男を愛するも、結果は無残なものになってしまいます。

 

 このように、彼女は2度別々の男を愛し、別々の理由で裏切られました。そしてその過程で何もかも失った彼女が横転したバスの中から出てくる。それが冒頭と対比されることで、スクヒが3度目の「生まれ変わり」をしたのだと分かります。しかしそれは完璧なる「悪女」としてです。少女時代から描かれてきた彼女の過酷な人生。その結末はとても悲しく、やりきれないもので、ただのアクション映画とは思えない余韻を残します。

 

 最後に。本作の成功は主演のキム・オクビンさんの力によるものが大きいでしょう。何と彼女、顔が見えているシーン全てで自分がアクションをしたらしいです。とんでもねぇ・・・。

色んな意味で『アベンジャーズ』のその先を描いた作品【アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン】感想

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78点

 

 多彩なヒーローたちの活躍を破綻なく過不足無く描き、しかもそれで映画が破綻していないという驚異のクオリティを見せた前作『アベンジャーズ』の続篇。続篇は大抵微妙かつまらないですが、さすがはマーベルスタジオ。不満が無いでは無いですが、十分に満足できる出来でした。

 

 本作でもジョス・ウェドン監督の手腕は健在です。本作は前作以上にヒーローが増えていますが、やはり1人1人に見せ場を与え、ちゃんと活躍させています。しかもやっぱりストーリーは破綻しない。

 

 まず素晴らしいのが冒頭。ヒーロー達の戦いをカメラを移動させてワンカットで撮っているアレです。あれでヒーロー達の能力とかキャラクターが一発で分かります。そして最後に皆揃ってポーズ。個人的に名シーンです。

 

 本作は皆見せ場がありカッコいいのですが、MVPはホークアイですね。前作では洗脳されてしまいましたけど、本作ではその分を挽回するかのように見せ場の連続。しかもそれが前作の反省を踏まえたものというのも痺れます。さらに、最初にホークアイを敵として描くことで、ホークアイの強さを強調させているという抜け目のなさも良いです。後はハルクですね。ブラック・ウィドウとの関係は呑み込めたとはいえ、ちょい唐突だったかと思いましたが、ハルクの苦悩が良く描かれていました。彼は単独作がない分、こういうお祭り作品でフィーチャーされるのですかね。

 

 

 本作の内容は、トニー・スタークがヒドラの基地から奪取したデータから生まれたウルトロンが、人類を滅ぼそうとするもの。彼を止める過程で、アベンジャーズの絆の強化、新メンバーの加入など、2ものの鉄板を行っています。

 

 このウルトロンですが、観ていると、行動の理由とかが、完全に『ターミネーター』のスカイ・ネット。人類を「悪」と見なし、排除にかかるのです。そんな人類をヒーロー達が(自分たちが悪いとはいえ)命がけで守る。人命救助シーンが多いこともあり、彼らが戦う理由を問い直す作品となっていたと思える・・・のか?

 

 

 本作で面白いのは、スタークが目指したものが、『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』でS.H.I.E.L.Dが目指したことと似ているということ。あちらの作品では、S.H.I.E.L.Dは現代のアメリカの暗喩と言える存在でした。そして、スタークは現代の「戦争屋」としてのアメリカの象徴みたいな存在でした。そんな彼が、「平和」のため、S.H.I.E.L.Dと同じことを行う。ここから考えると、スタークとキャップがアベンジャーズの柱として描かれているのが少し分かった気がしました。というのも、スターク/アイアンマンは「現在のアメリカ」のヒーローで、キャップは「古来のアメリカ」のヒーローだからと思えるからです。

 

 しかし、展開が雑だなと感じるところがあったり、そもそも全ての発端が彼らのせいだったとか、不満もありました。ですけど、それでも面白く見られたのは、純粋に本作が面白いからだと思います。

 

 

 本作の出来事が発端で、アベンジャーズの「終わり」が始まる作品。

inosuken.hatenablog.com

 

 「アベンジャーズ」3作目。

inosuken.hatenablog.com

 

神的な視点から描かれる「共生」の話【羊の木】感想

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78点

 

 吉田大八監督の最新作。吉田監督の作品はとりあえず観に行くようにしています(昨年の『美しい星』は時間が無くて観られなかった。残念)。しかし、今回は時間も何とか確保できまして、鑑賞してきました。

 吉田大八監督の作品を観ていくと、1つの共通するテーマがあります。それは、「信じる」ことの肯定だと思います。『桐島、部活やめるってよ』では夢を信じる若者を肯定し、『クヒオ大佐』では嘘を信じる女性を肯定したと思います。

 本作は「元受刑者を信じ、受け入れて生活できるのか」というものです。故に、「信じること」を描いてきた吉田監督にとって、本作はまさにうってつけの内容であったと思います。

 本作はキャッチコピーや宣伝を見る限りでは、普通のサスペンス、もしくは人間ドラマです。確かに、内容はそうです。ですが、さすがは吉田大八。ただのサスペンスにはしておらず、後半は一気に観念的な内容になり、物語的に「飛躍」しています。なので、観終わった時の感想としては、「変な映画だなぁ」という印象が強いです。

 前半は非常にオーソドックスなサスペンスです。まず受刑者6人の登場のさせ方が非常に上手い。月末との絡みで六者六葉の違いを見せたり、食事のとり方などからそれぞれの違いやちょっとした背景を観客にすっと理解させています。そして受刑者の生活を描きつつ、個別としては福元と大野のような「受容」の物語を展開させていきます。

 この「異物」が入ってくる感じが端的に表されているのの1つとして、月末のバンドメンバーに宮越が入ってくるところですかね。そういえばあのバンドも文の奏でるギターがノイズになって、鬱屈感を表していたような。

 「何だこれ、普通に良い話じゃんか」と思ったのも束の間。今度はそれまでと真逆の「信じられなくなる」描写が始まります。具体的には宮越にある人物が接触してきてからですね。あのシーンから、それまで問題ないと思えていた宮越を、ヤバい奴としてしか見れなくなります。その演出に一役買っていたのが「闇」。文との待ち合わせとか、月末との会話シーンとか、とにかく宮越は闇の中にいます。まるで、「得体の知れない何か」になってしまったように。

 このように、本作は我々に向かって、キャッチコピーの通り、「信じるか?疑うか?」を問いかけてくるのです。吉田大八監督はパンフレットで、受刑者たちを「究極の他者=あらゆる他者の暗喩(移民とか、普通の隣人)」として描くことで、近い将来起こるであろう「他者との共生」を描いたと述べています。確かに、本作はまさしく「共生の話」と言えると思います。

 さて、本作を語るうえで重要なのが「のろろ様」。島の中心にいる守り神です。伝承では、「やってきたときは悪人だったけど村人の抵抗で改心し、以後は守り神になった」とのこと。これは受刑者たちの話と重なっています。彼らも「殺人」という罪を犯してきた悪人なのですから。ですが、この街で生活し、ひょっとしたら更生してのろろ様のように根を下ろすかもしれません。

 しかし、本作の一連の騒動を観ると、どうもこののろろ様の力が働いている気がしてならないのです。のろろ様が定住者を選別して、あんなことが起こった(ようにも)見えます。

 ここまで考えると、タイトルの「羊の木」にも個人的な解釈ができます。ラストの芽から、定住できる人はできる(芽を出せる)し、できない人は無理。ってことですかね。そしてそのためには、「相手を信じる」という大野や福元に起こったことが必要なのだと思います。

現在、世界で起こっていること、そして将来、世界で起こり得ることを描いた傑作【デトロイト】感想

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96点

 

 1967年にデトロイトで実際に起こった暴動をドキュメンタリー・タッチで描いた映画。しかし、本作で描かれたのは当時の暴動だけではなく、いつの時代、どこの国でも起こり得ることだったと思います。

 まず本作について言えることは、ドキュメンタリー・タッチの映画として、本当に素晴らしいという事です。本編は、終始動きまくるカメラと当時のニュース映像が本編にシームレスに差し込まれることで、まるで実際の暴動の記録フィルムを観ている気分にさせられます。

 また、本作は視点を1つに定めず、様々な人物の視点からこの暴動を語り、当時、この暴動で起こった出来事を淡白に見せていきます。例えば、中盤の警官が建物へ発砲したシーンとかですね。ここから、我々はこの暴動を俯瞰して観ている気分になります。

 ここまで、本作はドキュメンタリー的だと書いてきましたが、ストーリー的にも上手いのですね。というのも、先に書いたバラバラの登場人物について、接点のない彼らが惨劇の館に集結してくるストーリー運びが絶妙なのです。舌を巻きましたよ。

 ここの手法から抉り出されるのは、「マジョリティが力の無いマイノリティを暴力で押さえつける」という今でも繰り返されている構図です。また、差別問題に関しても、人々の中にある無意識下の差別を抉り出しています。例えば、コーヒーの下りとか、尋問の下りとかです。白人側には悪意はありません。自分たちにとって当たり前と思って発言をしていますし、行動しているのです。

 そしてそれらを一手に引き受けるのは白人警官チーム。素晴らしかったですね。最低な奴らで。人の話を聞かない自己中で、いくら論理的に説得しようとも聞く耳を持たない。彼らを見ていて、他人事だとは思えませんでした。彼らの根底にあるのは、「差別してやろう」という意識ではなく、「1警官として、市民を守る。そのために黒人を処罰する」というものです。白人の無意識下の差別意識を体現したような人物でした。

 これら差別シーンの中でも白眉だと勝手に思っているのが、ジョン・ボイエガの屋内の尋問シーン。最初の彼の尋問と後の白人側の尋問シーンの対比が非常に上手い。というのも、ジョン・ボイエガのときは彼を「犯人」と決めつけ尋問していました。ですが、白人になった途端、尋問が「やったのか?」と疑問形から始まり、しかも弁護士まで呼べるという優遇ぶりを見せます。いかに当時の黒人に人権が無かったのかが分かります。しかもそれが行われているのは、「当たり前」だから。問題にすらならないのです。

 加えて、作中の人々は、恐怖心に支配されています。先に書いた発砲シーンなどはその典型ですし、暴動を鎮圧する白人警官も「やらなきゃやられる」という恐怖心から行動しています。無意識下の差別意識に、恐怖。これらが暴動を混沌へと導いていくのです。

 後、素晴らしかったのはエンドロールです。あれにより、あの事件に関わった人たちのその後が映されることで、あの暴動で人生が滅茶苦茶にされた人間がいることが認識でき、より悲壮さが増します。

 さて、私は本作を観てとある漫画を思い出しました。『デビルマン』です。特に最後の悪魔狩りのシーンです。あれは人類がとある人物に踊らされて特定の人間を「悪魔」とし殺していく、若しくは魔女狩りよろしく捕まえて拷問していく過程を描いていました。そして漫画史に残る惨劇を生むことになるのですが、あちらも原動力は「恐怖心」でした。

 何故、アメリカで起こったのと似たようなことが日本で漫画にされているのか。それは、人類の歴史の中で、これと同じことが幾度となく繰り返されてきたからでしょう。マジョリティがマイノリティを暴力で押さえつける。確かに、今まさに世界で起こっていることです。ジョン・ボイエガ映画秘宝のインタビューで「今の時代はあの時代と何も変わっていない」と語っていました。本当にその通りですね。今年ベスト級です。

革新的アニメーションで「人間・ゴッホ」を描いた意欲作【ゴッホ~最期の手紙~】感想

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80点

 

 去年の公開時から鑑賞したかった本作。年も越してしまい、主だった上映館では終了してしまったため、もう鑑賞は無理と考えていました。ですが、今年に入って私の行動圏内の劇場でやっていることを知り、時間もできたので鑑賞しました。

 まず、本作を観た誰もが凄いと思うのは、「ほぼ全編ゴッホのタッチの油絵(パンフによれば、一部水彩画らしいです)」という超実験的なアニメーションでしょう。実際に130点ほど彼の作品も使われているそうです。これは普通のアニメと同じく、1秒12カットで描かれ、90分の本編で、合計62450枚もの絵画が描かれているそうです。よく、映画では「構図が決まっている画面は絵画のようだ」と言われることがありますが、本作は1枚1枚を本職の画家が描いているため、1シーン1シーンが本物の絵画であり、故に、我々は「本当にゴッホの絵が動いている」と思い映画を観ることができます。アニメーションは”アニマ”を語源としており、そのイズムは”アニミズム”と言われ、「森羅万象には生命が宿っている」とされています。つまり、本作は「絵画」という静止した芸術を「アニメーション」としてい描くことで、静止した芸術に生命を宿しているのです。

 制作に際しては、まず実際に俳優に演技をさせ、それをもとに画家がアニメーターのように1枚1枚絵画を描いていたようです。そしてそれを記録し、ワンカットを作り上げていったとか。本作の総制作期間は7年で、1秒に10日をかけたそうです。読んだだけで気の遠くなる作業です。

 何故このような手法をとったのか。それはゴッホが弟テオに送った手紙に綴られた文章から推察できます。その内容は、「我々は自分たちの絵に語らせることしかできないのだ」というもの。ゴッホの生涯は、ゴッホの絵でしか語れない。それ故なのかもしれません。

 話の内容は、郵便局員の父からゴッホの最期の手紙を託された青年アルマンが、ゴッホの死の真相に迫っていくというもの。普通の伝記モノとは違い、どちらかと言えばドキュメンタリー的な要素が強い気がします。これはおそらく、企画当初の名残だと思われます。企画当初はゴッホの関係者へのインタビューの短編だったそうですから。

 そして、証言者によって彼の人柄が違うという、「羅生門スタイル」的な内容にもなっています。これにより、観客はアルマンと同化し、想像でしかゴッホという人物を知ることができなくなります。普通の伝記モノではゴッホの生い立ちそのものを描いているのとは違い、断片的な内容からしゴッホが分からないのです。ですが、そこから導き出されるのは、苦しみながらも芸術に命を懸けた男の一生でした。今では世界的に有名な彼ですが、生前は散々なものでした。その果てにあの結末。正直、優しすぎる結末です。ここから、本作は「芸術家・ゴッホ」ではなく、「人間・ゴッホ」を描いた作品と言えると思います。

 「自分が描いた絵で、人々を感動させたい」ラストに出てくる文章です。今、彼の作品は世界中で愛されています。あの一連のストーリーを見せられた後にこの文章を読むと、何だか泣けてきますね。また、本作はほぼ全編がゴッホの作品を基にしています。故に、本作自身も彼の作品であり、それに感動したということは、彼の、そして本作のスタッフの苦労が報われた気がして、良い余韻を残しました。