暇人の感想日記

映画、アニメ、本などの感想をつらつらと書くブログです。更新は不定期です。

2017年秋アニメ②【少女終末旅行】感想

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 もう年も明け、冬アニメが始まっています。そんな中で、「少女終末旅行」の感想です。正直、最初はそこまで期待してはおらず、何となく見始めた本作。ですが、見続けていくうちに、その丁寧な作りに惹かれていって、最終的には冬アニメの中で一番好きなアニメになりました。

 

 ・1話感想はこちら

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 1話時点の感想を読むと、私は本作を「キノの毒抜き版」と書いています。ですが、全話視聴した後だと、それは違うことが分かりますね。『キノの旅』は寓話です。本作は、まごうことなき「日常系アニメ」でした。

 「日常系」と言えば、様々な作品がありますが、代表的なのは『よつばと!』でしょう。あれは小岩井よつばという、まだ世界を知らない幼児の目線を通して、私たちが普段感じている何気ない日常を描くことで、日々の愛おしさを再認識させる作りになっています。

 本作はこれをディストピアという状況に置き換えて描いています。主人公のチトとユーリは少女であり、『よつばと!』の世界でいえば風香ぐらい。それでも日常系は作れますけど、『よつばと!』みたいなストレートなものは作れないのではないでしょうか。

 ですが、本作は世界そのものが何年か前に終焉しているため、我々の日常がもう戻ってこないものとなっています。チトとユーリは終焉した世界を明日の食料を求めてただただ彷徨うだけです。そして彷徨って辿り着いたところにあった「古代人の遺跡」つまり、私たちが当たり前だと思っている日常に触れることで、日常の素晴らしさを我々に再認識させるのです。

 その白眉は第5話の「雨音」でしょう。我々が普段当たり前だと思っている雨音。最初はバラバラだった雨音が、次第に合わさっていき、1つの「音楽」になっていく。これが「センス・オブ・ワンダー」ってやつなのでしょうか。EDにつながる演出と相まって、素晴らしい回でした。

 この5話を筆頭に、各話も丁寧に作られています。各話のテーマが台詞でも演出でも伏線として散りばめられ、最終的にそれらが綺麗に回収されていき、視聴者の中にいい感じの余韻を残します。

 各話もそうですが、アニメ全体も非常に丁寧な作りだなと思います。特に、チトとユーリの「2人だけの世界」の描写ですね。まずはBGM。非常に抑え気味に使われています。あったとしても主張しすぎないくらいさりげないか、シーンを盛り上げるために意図的にダイナミックに使われたりしています。抑え気味のときは静寂故の世界の終焉感が出ていますし、ダイナミックなときはシーンの良さが際立ちます。音楽の使い方が上手いのかな。

 後は背景ですね。終始機械や廃墟などの無機質なものに満ちています。色も黒とかなので、余計に孤独な感じが増しますね。この時にかかる機会の稼働音みたいなものも、それを増長させます。

 しかも、登場人物は基本的にチトとユーリの2人だけ。ゲストで2人と1体と1匹。なので、EDクレジットは毎回非常に寂しいです。

 ですが、だからこそ最終話が光ります。これまで、日常の愛おしさを我々に見せつけてきた本作ですが、最終話で、とうとう人間を、世界そのものを肯定してみせた気がしました。世界の終焉が人間の営みと共に描かれていたあの映像です。「ショパンノクターン 第2番」が非常にマッチしていて、どことなく物悲しく、でも愛おしいといった感じが出ていました。で、そこからのサブタイトルの「仲間」も素晴らしかった。EDクレジットもいつもよりも賑わっていて、人間がいるというのも、悪いことじゃないかもね。とか思っちゃいましたよ。

 このように、本作はディストピアを通して、我々に日常を、そして人間を肯定的に見せてくれた作品だと私は思っています。そしてそれを丁寧な作りで送り出してくださったスタッフの方々には感謝しかありません。ありがとうございました。

 最後に。話が最終的に『風の谷のナウシカ』になったのは驚きましたね。『風の谷のナウシカ』は絶望的な世界でも「生きねば・・・」という結論に達しました。本作も似たような感じでしたね。そして何より、ヌコですよ。完全に『風の谷のナウシカ』の王蟲じゃん。ボスの声優さんが島本須美さんだったし、狙ってんのかな。

【キングスマン ゴールデン・サークル】感想

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79点

 

 現代版「007」として世界中で大ヒットした『キングスマン』の続編。前作のような悪趣味かつ、キレッキレのアクションを楽しみにして鑑賞しました。確かに、アクションはキレッキレでした。しかし、前作と比べると若干のパワーダウンは否めない作品でした。まぁ、それでも面白かったかといえば面白かったわけですが。

 前作は、エグジーが「キングスマン」になる過程を描く「オリジン」ものでした。故に、前半は寮ものともいえる訓練シーンがありました。しかし、本作では彼は既にキングスマン。なので、最初からプリンスの「LET'S GO CRAZY」をBGMにした、文字通りのアクセル全開のカーチェイスシーンが繰り広げられます。ここでテンションがガン上りです。

 また、アメリカを小バカにした設定も健在。本作の敵ポピーはアメリカの良妻賢母的です。そんな彼女がヘマを犯した部下をミンチにして、それをもとに人肉ハンバーガーを出すシーンは悪趣味極まりない。しかも、「美味しい?」とか聞くもんだから余計始末におえん。監督のマシュー・ヴォーン曰く、彼女は「間違ったアメリカのスウィート・ハート」だそう。なるほど。

 しかも彼女が住むポピーランドは50年代のアメリカを再現したようです。そこで作られているのが麻薬だというのがまた何とも言えません。『ブレイキング・バッド』を見ていると、アメリカというのは、国民は結構な数の人間が麻薬に手を染めているらしいです。それは麻薬が合法になったからかもしれません。それ故か、本作に出てくる麻薬常習者は、ほとんど善良な人間として描かれます。

 そんな彼らを人質にポピーは政府を脅迫するのです。でもこの大統領がひどい男でして。これを聞いて「麻薬常習者を一掃できるじゃん!やった!」とか言うわけです。レーガンみたいだし、トランプっぽくもあります。

 そんな「間違ったアメリカのスウィート・ハート」と「ひどい大統領」に立ち向かうのが、ザ・イギリスな「キングスマン」とザ・アメリカな「ステイツマン」。ここにマシューヴォーンの歪んだ気持ちがある気がします。彼は(最近違うことが判明したそうですが)アメリカの俳優ロバート・ヴォーンとイギリス人女性の間の子どもとされていたそうです。だからこの構造なのかもしれません。

 激闘の末、エグジーは勝利を収めますが、同時に何もかも失くしてしまいます。しかし、エグジーの中には、英国紳士としての「精神」は残っています。その精神を以て、「キングスマン」を再建していくのでしょうね。前作と同じく、鏡を見るシーンを以て成長を実感させる演出はニクいです。

 ここまで肯定的に書きましたが、先にも書いたとおり、パワーダウンした気がするのも事実。まず、アクション。全体的に前作と比較すると、オーソドックスなものが多かったと思います。確かに前作のようなカメラワークのアクションはあります。ですが、協会の大殺戮シーンとか脳みそ大爆発とか、「不謹慎ながらも痛快なシーン」が無いんです。よく考えると、前作はR15指定だったのに、本作は全年齢対象なんですよね。だからかな。

 また、脳みそ大爆発でいえば、悪役の顛末も、拍子抜け過ぎます。「普通じゃん!」って感じです。

 ただ、ここは監督の「前作と同じことはしたくない」という気持ちから生まれたのかなと思います。確かに、冒頭のカーチェイスは素晴らしいと感じましたし。

 しかし、それを以てしても看過できないことがあります。そう、「あのキャラ」の裏切りです。唐突過ぎたし、何より、何故それを「彼」が見破れたか、が最後まで全く分からないのです。しかもそこまで悪いことしてないのに、ミンチはやりすぎでしょう。「細かいことは気にしない」ことが重要な本作ですが、これには突っ込まざるを得ません。

 このように、面白いのですが、少しパワーダウンしてしまったかなと思わせる作品でした。でも、好きなので甘めで。

 

 ・私の前作の感想はこちら

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【スター・ウォーズ/最後のジェダイ】感想 ※ネタバレあり

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75点

 

 遂に観ました。世間では賛否がパックリと割れている本作。思い入れが強い方が多いシリーズですし、本作でやってることを考えれば当然ですね。むしろ前作で上手くやったことの方が異例だったのだと思います。ちなみに、図らずも2017年最後に観た作品となりました。

 私の『スター・ウォーズ』シリーズに対する距離を述べておくと、「にわか」ですね。一応、EPⅠ~Ⅶ、そして『ローグワン』は観ていますが、それだけです。ちなみに、平成生まれなもので、初めて映画館で見たのは『フォースの覚醒』でした。なので、特別このシリーズに思い入れがあるわけではなく、一歩引いた視線で観てます。

 また、シリーズで何が一番好きかと聞かれれば、『フォースの覚醒』と答えるでしょう。観た当時はこの作品に疑問を抱きましたけど。というのは、EPⅥの次の話なのに、EPⅣみたいなことをやってるからです。「もう一度ここから語りなおす」という意味があるとはいえ、心にモヤモヤとしたものが残りました。でも歴代で一番面白かったと感じましたね。だって、C3POがほぼ出てないのに観れましたし。

 このような思いを抱き、年末にIMAXで鑑賞してきました。ここから感想です。ここからは盛大にネタバレしていきます。

 

 物語は前作のラストから始まります。レジスタンスはファースト・オーダーとの大戦闘シーンから。レイはルークと出会い、ライトセーバーを渡すところからです。しかし、ルークは即効でライトセーバーを捨てます。ここから全て示唆されるとおり、本作は「伝説を壊し、自分たちの世代の物語にする話」でした。確かに、本作では過去の「伝説」が次々と否定されていきます。ハン・ソロは前作で死亡(?)しましたし、レイアは序盤の後しばらく退場、ルークは「希望」として期待されていたけど、最終的には「あなたは希望じゃない」と一蹴されます。

 また、「ジェダイ」についてもヨーダ(何とEPⅠ,Ⅴ,Ⅵと同じくパペット)が直々に出てきて、「古い書物はもう必要ない」と、ルークが大切にしていた書物を焼き払います。ここまででもとんでもないですが、「ジェダイは多くの人間を殺した」とか、過去のものに対して相対的な視点まで持ってきています。これでこれまでの勧善懲悪が崩れます。

 ここまで「過去の伝説」を否定して、次は誰が銀河の平和を担うのか。それは、「名も無き普通の人々」です。本作でレイの両親が明かされますが、それは我々が期待していたものではなく、拍子抜けな答えです。また、フィンはⅠ~Ⅵでは「その他」の代表格、ストーム・トルーパーですし、ダメロンもただの1パイロットです。ですが、それが『スター・ウォーズ』シリーズの揺り戻しになってるのかなぁと思います。というのも、ルークって田舎の惑星に住んでいた一青年に過ぎなかったわけです。それがEPⅤで「実はダース・ベーダーが父でした」となって、一気に血統主義となってしまいました。そこを本作では「名も無き人々の話」に戻しているのかなぁと。ここまで考えると、この点で、本作は『帝国の逆襲』と真逆の構造になっていると思います。

 そしてこれは、同時に「あなた達のスター・ウォーズだ」という宣言ともとれます。レイたちは、前作で我々のようにルーク、ハン・ソロ、レイアといった「伝説」に憧れていました。そんな彼女たちは「名も無き人々」であり、「銀河を救う存在」なのですから。

 そのような彼らに対するのは、ダース・ベイダ-の孫であり、ハン・ソロとレイアの息子、という週刊少年ジャンプなら主人公が間違い無しのカイロ・レン。ただ、彼も血統主義の只中にいて、コンプレックスの塊です。しかし、彼も遂にそれを打破し、「伝説」と決別します。そしてレイとは違った形で、自らの目的である銀河を治めようとします。

 本作は全体的に彼(後はルーク)の映画でしたね。演じるアダム・ドライバーが素晴らしいです。『フォースの覚醒』の頃とは見違えるくらいのオーラを纏っていました。終盤の大立ち回りも素晴らしかったですし。一昔前の時代劇を思い出し、ちょっと感動しましたよ。と思ったら、監督は『三匹の侍』、『斬る』などの時代劇を参考にしたそう。なるほど。

 ルークも色々言われているそうですが、とても良かったです。老練な感じと若々しい感じが出ていて。

 ここまで見せられた後のラストがとても印象的でした。レイアを差し置いて、ダメロンに着いて行く彼ら。まさに「新しい時代の始まり」です。

 そして同時に、本作は1つの時代の終わりでもあります。「スカイウォーカー物語の終焉」です。ラスト、ルークが夕陽を観ながら霊体になるのは、『新たなる希望』から彼がたどった人生を考えるととて感慨深くなり、ちょっと感動しました。そして、また新たな「ルーク・スカイウォーカー」が誕生する瞬間にもちょっと涙。あの子が新3部作の主人公なのかな。

 このように、「1つの時代の終わり、そして新しい時代の始まり」としてはとても面白いです。ただ、全体的に粗がありすぎな気もします。中盤の「コード破りの達人探し」が完全に要らなかったとか、ダメロンが本当に「ダメ」ロンだったとか、ホルドはもうちょっと説明をすべきだろとか、チェイスシーン(?)に緊張感がゼロだったとか、キャプテン・ファズマが無能すぎだったとか、展開が全体的に「取ってつけた感」があるとかです。

 しかも、内容も前作の伏線の整理に留まっている気がします。まぁあれだけの風呂敷を良くもまぁあそこまでまとめたなとは思うのですけど。

 これはライアン・ジョンソンが「キャラを重視して演出した」結果かと思います。彼はパンフレットでも「大事なのはキャラだ」と言ってますし。

 さて、このように、私の考えでは本作は「過去の伝説を終わらせ、新しい時代を作る」話でした。それは上手くいっていると思います。見せ場もありますし、それらは総じて上がります。ですが、それらを繋ぐシーンが上手くないんですね。

 しかし、私は本作にディズニー側の思惑を感じ取ってしまいました。つまり、「これから、スター・ウォーズガンガン作るんで」ということです。

 本作で『スター・ウォーズ』シリーズは「普通の人々」の話になりました。それは良いことだと思うのですけど、同時にディズニーがいくらでも作品を作れるようになりました。こう考えると、『ローグワン』ですら、ディズニーのこのための「実験」だったのではないかと思えてきます。私は、今の3部作が「これからスター・ウォーズを作り続けるための整理」に終わってしまうのではないか、と心配になりました。そんなことはないか。次作、待ってます。

人の善意が希望を作る【希望のかなた】感想

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80点

 

 アキ・カウリスマキ監督「難民三部作」の第2作。意図せずして35mmフィルム版で鑑賞しました。全体的に温かみがある映像で、作品の雰囲気に非常にマッチしていました。

 

 本作はシリア難民問題を扱った作品です。非常に深刻な問題ですが、レストランの面々に代表されるように、全体的にどこかユーモラスで、温かい作品でした。

 

 本作には難民問題に対する監督の怒りがストレートに出ていると思います。管理局の人間は杓子定規的な対応しかしないし、その対応の後にTVで紛争が起こっていることを示したりしています。さらに、排外的な人間も出てきます。興味深いのは、主人公であるカーリド(山田孝之真田広之似)を襲った奴の1人が、彼を「ユダヤ野郎」と罵ったことですね。カーリドは元イスラム教徒なんですけど。と突っ込みたくなりました。このように、排外的なことを言ってる奴は、「何となくの知識でしかものを言っていない」ことを描いていたのも印象的でした。

 

 こういった窮屈さは劇中の言葉でも言及されています。「難民が異国で受け入れられるコツは楽しそうに笑う事。でも笑い過ぎない事」って台詞ですね。要は目を付けられないようにすることかね。

 

 このような現実を突きつけてくるのですが、カウリスマキ監督は世界の優しさも描いています。代表的なのがレストランの面々です。彼らは難民であるカーリドを受け入れ、彼のために力を尽くします。また、ここから炸裂するギャグがとんでもなく下らなくて笑えます。特に「スシ」の下りは日本人必見です。

 

 パンフによれば、監督は本作を通して、難民の意識を変えることだそうです。以下に引用します。

 

私がこの映画で目指したのは、難民のことを哀れな犠牲者か、さもなければ社会に侵入しては仕事や妻や家や車をかすめ取る、ずうずうしい経済移民だと決めつけるヨーロッパの風潮を打ち砕くことです。*1

 

 確かに本作のカーリドは、ただ希望を持って生きようとしている1人の人間に過ぎません。そして監督は、インタビューでこうも述べています。「我々は友人を助けられなければ存在できない」と。確かに本作は全篇通してそこを描いていました。劇中で語られるだけですが、カーリドは人々の善意であそこまで来れたのですし。

 

 厳しい現実でも、そこには確かに善意の人々がいる。そこに確かに希望はある。だからこそ、ラストでカーリドは微笑んでいたのかもしれません。

*1:希望のかなた』パンフレットp1「アキ・カウリスマキ監督からのメッセージ」より抜粋

結局、キャラ紹介「だけ」で終わってしまった:2017年秋アニメ①【キノの旅-the Beautiful World- the Animated Series】感想

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 長年ファンである本作。アニメ化を聞いたときは嬉しかったので、不安もありつつ楽しみにしていました。そして1話が終わって、心の底から安堵しました。素晴らしい出来だったからです。感想を貼っときますね。

 

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 「これなら任せられる。大丈夫だ。・・・そう思ってた時期が、私にもありました。回を重ねるごとにどんどん微妙な出来になっていき、終盤ではイライラしながら見るハメになりました。

 

  ハッキリ私の意見を表明しておくと、本作は「失敗作」だと思います。というのも、本作には、「軸」がないと思うからです。

 

  その軸とは、「キノの旅」という作品の大部分を占める「傍観者キノ」の話のことです。本作はそこが薄ぼんやりしている。


 「キノの旅」では、キノとエルメス、シズと陸とティー、師匠と弟子、フォトとソウの、主に4つの話があります。そしてそれらにはキャラ毎に内容が異なり、それが世界の、人間の多面性を見せることに貢献していると思います。そしてこれらの話がこのような効果を生むのは、「傍観者キノ」の話がしっかりと軸として機能しているからです。


 ここで言う「傍観者キノ」の話とは、「星の王子様」ようなキノが訪れた国を傍観している話です。時雨沢先生によると、『キノの旅』の最大のモデルは『銀河鉄道999』だそうです*1。あれは鉄郎が様々な風習を持った星を旅するものです。 そしてそれに加え、上述の『星の王子様』や、星新一作品の要素もあると思います。これらに共通していることは、基本的に各話の主人公はその星や国の人々であることだと思います。原作もその要素は継いでいて、少なくともキノの話は、基本キノは傍観者であり、主役は国民です。前作のアニメはここら辺を徹底して描いていました。

 

旧作の感想はこちら。

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 今回のアニメ化のダメな点は、この軸をしっかりと視聴者に提示しないまま、他のキャラの話をやってしまっている点です。なるほど、全12話中、「キノの登場回数」は全キャラの中で断トツ1位です。しかし、その中でも作品の軸である「傍観者キノ」の話はいくつあるでしょうか。

 

 それは個人的には1,3,5話の3つだと思っています。2話は確かにキノが主人公ですが、特殊な回で、ラストで国に介入します。4、6、7話はキノが主人公ではありません。9話はネタ回でしたし、10話はイレギュラーな話。これはもっと「傍観者キノ」の話をやらないと効いてこないと思います(これについては後述)。11話は、まぁ、「キノ」の誕生の話ですからね・・・。12話は羊。何でこの話を最後にしたんだ。故に、1,3,5の3つです。しかも厳しめに見れば、3話はキノが「国に介入する」という色々なルールを破る話。多分フルートの紹介で出したかったのでしょうが、3話でやる話でもないような。だから実質2話です。2話しかないのです。少なすぎ。

 

 これによって、最後の演出も微妙な感じになっています。私は11話のあの演出は1話冒頭の補完になっていると思っていて、そこらへんは素晴らしいと思いました。でも、それは1話と11話だけで完結しているのです。間の「傍観者キノの話」が少なく、しかも他のキャラの話が内容的につながらないから、11話であのオチをやっても、「あぁ、なるほど」ぐらいにしか思えん。

 

 また、これによって、更なる問題が生じています。それは、主人公であるはずのキノのキャラクターがよく分からないことになっている点です。某掲示板でキノのことを「やれやれ系チート主人公」と例えていた人がいたことがショックでした。そして、このアニメだけを見れば、そう思えても仕方がないと思ってしまう自分にも。これは構成の問題です。1話で傍観者面していたキノですが、2話で「コロシアム」、3話で「迷惑な国」をやってしまったことで、いきなりこのスタンスをひっくり返してしまっているのです。これは原作ファンからすれば納得いくものではありますが、キノというキャラをよく分かっていない新規の視聴者は置いてけぼりをくらったとしても仕方ありません。しかもそこからしばらく他のキャラの話に移ることもここに拍車をかけています。本当は3話くらい「傍観者キノ」の話をやり、キノのキャラをしっかりと理解させた上で上記2話をやるべきなのですが・・・。

 

 何故、このような歪な構成になってしまったのか。それを考える視点として、「キャラと作品の紹介」について注目するとこの構成の意図が見えてきます。

 

 全12話をよく見てみると、ほとんどの話に「紹介」の意図があることが分かります。1話は「キノの旅」の基本的な紹介、2話はキノの強さ兼シズの紹介、3話はフルートの紹介、4話はティーの紹介、6話はフォトの紹介、7話は師匠の紹介、8話はシズ一行が真の意味で「仲間」になる話です。そして10、11話は作中トップクラスの人気話。そう、今回のアニメ化は、12話を使った「作品紹介」に止まってしまっているのです。なので、本作は、新規の人には「キャラや武器は分かるけど、肝心の軸が分からない」という上澄みをなぞっただけの本末転倒な作品になってしまうのです。

 

 この点は、作品の軸をしっかりと描き出そうとした2003年版とは対照的です。本作は、軸と共に、キャラ紹介をやろうとしていて、それが全く上手くいってない。キャラ紹介の話はそういう意図を持って書かれているので、やはりキャラの印象が強く残ります。故に、寓話的な要素が薄まってしまうのです。キャラ紹介をちゃんとやりたいなら、キチッとその分の尺を用意してくれよ。

 

 後は、作画も問題だと思っていて、素晴らしい回は本当に素晴らしいのですが、ひどいときはひどい省エネ作画でした。もっと頑張ってほしい・・・。

 

 

 ただ、いくつかの話は本当に素晴らしいです。1話は何度見ても良いし、5話も良い。こういうので良いんです。懸念の「優しい国」も悪くなかったです。そして何より、「大人の国」。凄かった。ずっと色褪せた世界だったのが、城壁を抜けたら色付く演出は素晴らしい。ここで、旧作とは違うアプローチで、同じ結論に辿り着いています。キノは、1話冒頭の通り、世界の美しさを知っていたのですね。しかも旧作最終話と対になるラストの台詞。これだけなら旧作超えてます。

 

 このように本作は、新規の視聴者には「よく分からない」内容になったと思います。作ってしまったので、やり直しも出来ない。この点で、キノの旅のアニメは、中々まずい状況になったと思います。もし続篇を作るなら、「涼宮ハルヒ」の2期のように、新作と本作をシャッフルして作ってほしいなぁと勝手なことを考えています。

 

 

コミカライズ版。こっちはとてもいい。

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*1:キノの旅XIII‐the Beautiful World‐」p.247 あとがきより

【gifted/ギフテッド】感想

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77点

 

 数学に関して天才的な頭脳を有する女の子と、父親になりきれない男の話。タイトルは「gifted」つまり、「与えられた才能」です。直接的には、これは女の子の頭脳のことです。しかし、同時にキャッチコピーの通り、「愛する」才能も示していると思いました。

 本作には2人の「親になりきれない大人」が出てきます。1人はもちろん、クリス・エヴァンス演じるフランク。もう1人はリンゼイ・ダンカン演じるイブリンです。

 まずフランクですが、彼は、姉の遺言通り、メアリーを「普通に育てたい」と考えています。だからメアリーを普通の学校に通わせていますし、イブリンからも遠ざけています。しかし、彼はとある事情から自分にそこまで自信を持っておらず、メアリーに関しても姉の遺言に従っているだけです。だから何かというと遺言の話を持ち出します。

 次にイブリンですが、彼女はフランクとは真逆で、メアリーに「天才」として、ギフテッド教育を受けさせようとします。もちろんそれは彼女なりにメアリーの幸せを考えてのことです。だから劇中では「悪」としての描写は全くありません。ですが、劇中の話を聞いていると、どうもそれは非人間的なものに聞こえてきます。また、彼女の過去が示唆されるシーンがあるのですが、どうも過去に挫折したことがあるようで、その埋め合わせも(無意識的とはいえ)兼ねている気がします。

 この2人が対照的に映される事で、メアリーにとって「幸せ」はどっちなのか、と我々は考えるわけですね。

 そして、本作を語るうえで欠かせないのが、「不在の中心」とも言うべきフランクの姉・ダイアンです。彼女は写真でしか出ませんが、結局、話は「彼女はどう思っていたのか」が中心になっていきます。客観的な状況は徐々に語られていって、それを知るたびにメアリーの現在の状況と似通っていることが分かります。そして、双方が「もう2度とあんなことは起こさない」と別のベクトルで考えているわけです。つまり、あの2人はある意味で「ダイアンのやり直し」をしようとしたのかもしれません。

 そしてこの「ダイアンの気持ち」はラストで明らかになります。そこに書いてあった文字を見て、イブリンは気付いたのかなと。「ただ愛してやればよかったんだ」ってことに。ダイアンは彼女が思っている以上に数学が好きだったんだから。

 そして、フランクもそこに気付きます。だからこそ、ラストはお互いに納得できる形に落ち着き、真の意味での「家族」になれたのかなと思います。

 これらの内容を説得力のあるものにしたのは、やっぱり子役のマッケナ・グレイスの力が非常に大きいと思います。もはや貫禄は大女優のそれだと思いました。順調に彼女は役者として「ギフテッド」なのでしょうね。

 このように、マーク・ウェブが「原点回帰」を目指して作った本作は、その通り、非常に規模の小さい、ありふれた話になりました。だからこそ、私は素直に感動できたのだろうなぁ。いい話でした。

【オリエント急行殺人事件(2017年)】感想

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56点

 

 言わずと知れたアガサ・クリスティーの代表作。ただでさえ事件の真相は有名なのに、日本では2015年に三谷幸喜さんがドラマ化しているため、余計に真相は知れ渡っています(映画のロビーで、おばさん達が予告を観ながら「これ、あれだよね」と盛大にネタバレしていたのが印象的でした)。しかも、映画版では1974年のシドニー・ルメット版が評価を得ていて、更に「ポアロのドラマ」といえばデヴィット・スーシェ版が決定版とされています。私的にはこちらのイメージが強いです。そんな中、「何故、今ポアロなのか?」という疑問を胸に抱き鑑賞しました。

 結論として、上記の疑問にもあまり答えられていない作品でしたし、映画としても微妙な出来でした。

 「ミステリー作品は映画には向かない」と言われることがあります。というのは、構造上どうしても観客の興味を持続させるものになるのが謎解きになるので、映画の大半はその捜査に費やされます。しかもその捜査は地道な聞き込みとか実況見分とかで、展開はとかく地味になりがち。更に人間関係の複雑さが観客を混乱させます。ここをどうクリアするか、が肝だと思います。

 市川崑は、『犬神家の一族』において、ここら辺を物語の順序を入れ替えたり、コメディ・リリーフを置いたり、人間関係をいったん整理させたりして、かなり工夫をしています。ですが、本作ではそういった工夫はあまり見られず、ただ淡々とポアロが捜査して、真相を解明する姿のみ映しています。しかも伏線が周到に張ってあるだとかだったらまだ良かったのですが、明かされるのは犯人と被害者の過去のみで、それを以てポアロが力技で推理しているだけです。なので、観終わっても「あー、やっぱそうなんだ」という「原作の事実確認」だけで終わってしまっています。

 しかし、工夫を凝らした個所もあるにはあって、具体的にはポアロの事情聴取シーンですね。毎回場所を変えるなど、絵的に観客を飽きさせない作りにしてはいました。さらに、合間にちょっとしたアクションシーンを入れたりしていましたね。でもさぁ、これは余計だったと思うよ。いらないし。

 また、「最後の晩餐」の場面を挿入し、ポアロの最後の推理につなげるのとかは良かったですね。そこから、犯行シーンが映るのですが、それが犯人の持つ恨みを表現したかのような映像でしたね。

 ここまで、ここまで、色々と不満を書きました。これらは映画としての不満です。ですが、個人的には本作はケネス・ブラナー主演の「ポアロ」シリーズ1作目としても、微妙だと思います。というのも、本作が「ポアロが変則的な行動をとる話」だからです。

 冒頭、ポアロは言いました。「私の仕事は善と悪をはっきりさせること」だと。しかし、この事件は、それでは簡単に片づけられないものです。何故なら、被害者がどうしようもない人間だから。むしろ犯人の方に大義があります。しかし、殺人は許されるものではない・・・。これは上記ポアロの信念を揺るがすものです。そしてその先に、彼らしからぬ行動に出ます。これが良き余韻を残します。しかし、これって、「ケネス・ブラナーの」ポアロ像が確立されてからやる話のような気がします。あのラストも、「ポアロがこれをやるんだ」というサプライズが大きいと思いますし・・・。そんなことないのかな。

 でも、映像は美しいし、工夫はあったので、次作あったらまた観るかも、しれないです。

 ※感想を書くにあたって、春日太一さん著作の「市川崑と『犬神家の一族』」を多分に参考にしました。