80点
「悪人」「怒り」などで知られるベストセラー作家、吉田修一先生の短編集「犯罪小説集」を、『64 ロクヨン』『菊とギロチン』で知られる瀬々敬久監督が映画化した作品。当時は『ジョーカー』が大旋風を巻き起こしていたこともあり、宣伝ではしきりに「ジョーカー」という単語が連呼されていました。他人の褌で相撲をとるなんていくら何でも節操がなさすぎではと思ったのですけど、鑑賞してみたら使いたくなるのも納得の作品でした。本作は、『ジョーカー』と同じく、社会に押しつぶされた人間が「無敵の人」になる話だったからです。
本作において、主な舞台となる村で起こることは、現代の日本の写し鏡であり、世の中の縮図と言えると思います。この村では主要人物のうち、綾野剛と佐藤浩市の2人が死亡します。注目すべきはこの2人が死ぬまで理由です。この2人はそれぞれが違う理由で追い詰められるのです。綾野剛は在日であるという理由から来る不信感(要は昨今の排外的、ネトウヨ的思考)で、佐藤浩市は村総出のいじめです。彼らを追い詰めたものに共通するのは村の中の人々の偏見からなる集合意識と、それを上手く操って村人を煽った「上」の人間(寄合の爺ども)です。この偏見と差別的な意識、そしてそこから来る排他的な声やバッシングは、特にSNSでよく見かける光景です。この点で、この村は日本の縮図であると思うのです。
本作は2人が追い詰められていくさまをじっくり見せていくのですが、そこに観客を放り込み、観客に揺さぶりをかけます。それは主に綾野剛のパートで発揮されていて、少女失踪事件の全容が上手い具合にぼかされているため、観客側も綾野剛を犯人ではないかと疑えるように作っているのです。しかし証拠はない。ここで思い出してほしいのは、綾野剛は何故自死したのかということ。その根底にあるのは上述の通り社会に潜む「アイツが犯人だろう」という偏見と推測です。ここで綾野剛が犯人であると思ってしまえば、我々観客もあの村人と同じになってしまうという作りになっているのです。
では、我々には何ができるのか。それはもう、「信じること」しかないとのだと思います。この点は同じく吉田修一先生の「怒り」と同じです。そして、互いに信じあい、佐藤浩市のように犬を拾える人間が「楽園」を作ることができるのだと本作は説きます。本作ではターニングポイントに必ず「道」が登場し、象徴的に使われます。「どちらを選ぶのか」そして、その道の先に「楽園」を作れるのは杉咲花であり、我々なのだと思います。本作で監督が訴えたかったのは、そういうことなのだと思いました。
昨年の大ヒット作。題材が似ているのは時代なんでしょうか。
瀬々敬久監督作。