暇人の感想日記

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2017夏アニメ⑦【終物語(2期)】感想

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 「物語シリーズ」最終作。原作はこれ以降も出ていますし、これからもアニメ化はされるでしょうが、「阿良々木暦の物語」はこれで完結らしいです。私はこのシリーズの熱心なファンというわけではなくて、基本アニメでしか見ていません。しかもTVアニメのみ。原作は「化物語」しか読んでいません。そんな私ですが、8月にこれを見まして、1つ思ったことがありました。このシリーズ、原作者、西尾維新さんの代表作「戯言シリーズ」と構造が非常に似ているなと感じたのです。そこら辺を書いてみたいと思います。

 まず「終物語」の話ですが、端的に言うと、「阿良々木暦を知る物語」なわけで、忍野扇も、暦の自己批判の怪異でした。暦がこれまで紡いできた物語をメタ的に批判していたのが扇で、彼女はこれまでの暦の物語を正そうとしていました。

 そして、「戯言シリーズ」ではどうだったかというと、あれは最終的に「物語から追放された」西東天が、世界という物語を終わらせようとし、それを「いるだけで周囲を狂わせる」物語の規格外、いーちゃんが阻止する話でした。ミステリー?知らん。

 2つとも、規模が「世界」から「個人」に変わっただけで、「物語そのものをメタ的に展開する」点では同じだと思います。役割も少し入れ替えただけで、だいたい同じです。西東天成分は忍野メメとか臥煙伊豆湖に受け継がれ、いーちゃん忍野扇ですかね。狂わせるという点で。

 ただ、違うのは主人公ですね。共通しているのは語り部であることです。ですが、「戯言シリーズ」のいーちゃんは直接は手を下すことはあまりないけど、いるだけでどんどん周囲を狂わせていく「傍観者」。暦は積極的に関わっていく「当事者」なのですね。つまり、いーちゃんは物語を語る立場で、暦は物語を作る立場なのかなと思います。

 この立場が両作品に違いをもたらしたところだと思います。いーちゃんは傍観者だから物語の作りようがない。だから世界という物語の話になる。一方、暦は当事者だから物語を紡げる。だから、自分の中に物語を作れる。そして、自己批判精神が生まれる。そして、今作は物語に混乱を起こすいーちゃん的存在、忍野扇を暦が受け入れる話です。それすら肯定することは、自身の肯定にもつながり、「個人」の話に収斂したと言えるかと思います。

 「物語シリーズ」は、登場人物「個人」の物語であり、同時に暦の物語でした。その個人の物語をメタ的に見て展開する。「100%趣味で書きました」と西尾維新先生は言ってましたが、まさしく彼らしい作品だったなと思います。