暇人の感想日記

映画、アニメ、本などの感想をつらつらと書くブログです。更新は不定期です。

闇の中で光を見つける物語【THE BATMANーザ・バットマンー】感想

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93点
 
 1939年に登場して以来、「スーパーマン」と並び、DCコミックスはもちろん、アメコミ全体を代表する存在となっているバットマン。本作は、「バットマン単独作品」としては『ダークナイト ライジング』以来、実に10年振りとなります。監督はリブート版『猿の惑星』シリーズや、『クローバーフィールド/HAKAISHA』のマット・リーヴス。本作は、ヒーローものの1作目ではあるものの、所謂「オリジンもの」とは少し違い、ブルース・ウェインバットマン活動を開始済みで、2年が経っているという設定。メインのヴィランリドラーですが、他にも、ペンギンやキャットウーマンも出演します。
 
 ブルース・ウェインは、幼い頃に起こった両親殺害の復讐のために、夜になると犯罪者たちを力でねじ伏せる「バットマン」として活動していた。彼が活動を始めて2年目、ゴッサムシティで、街の権力者を狙った連続殺人事件が起こる。犯人の名前はリドラー。恐るべき知能を持ち、現場に「なぞなぞ」を残していくシリアルキラーだ。バットマンはゴードンと協力して「なぞなぞ」を解き明かし、リドラーを追う。だが、その過程で、ゴッサムシティの暗部、そして彼の父親が持つ暗部が浮き上がってゆく。全てが闇に包まれたこの街が、崩れようとしていた・・・。
 本作を観てまず印象に残るであろう点は、画面の圧倒的な「闇」です。基本的に、シーンのほとんどが夜という点も大きいのですが、昼間のシーンでも、画面はどこか薄暗く、映画全体のトーンもどこか陰鬱です。この闇は、「映画館」という特別な空間でなければ味わえないものであり、これだけでも、本作は「映画館で観る」価値があります。本作におけるゴッサムシティは、腐敗と犯罪の温床であり、「闇」はこの出口の見えない、混沌としたゴッサムシティの暗部を象徴しているかのようです。そしてもう1つ、重要な要素として、画面全体の闇は、ブルース自身の心の闇も表していると思います。
 
 マット・リーヴス監督は、本作におけるゴッサムシティを、『チャイナタウン』のように、登場人物の1人として扱おうとしたそうです。この点は過去のバットマン映画とは一線を画していると思っています。これまでのバットマン映画(バートン版、ノーラン版)においては、ゴッサムシティというのは、「バットマンが活躍するフィールド」としての役割が強かった気がしていて(つまり、バットマンというキャラが存在しうるフィールド)、「街」そのものが主人公の心情を表している、というのは初めてなのではないかなと思います。この点では、本作は『カリガリ博士』のような、表現主義的、と言えなくもない、かもしれません。
 
 マット・リーヴス監督は、本作に大きなインスピレーションを与えた作品として、アメコミの「バットマン:イヤー・ワン イヤー・ツー」を挙げています。こちらはタイトル通り、バットマンの活動1年目と2年目に焦点を当てた作品で、モノローグの多様、どこか陰鬱な雰囲気など本作から影響を受けたと思しき点をいくつも見つけ出すことができます。
 さらに本作からは、様々な映画からの引用を見ることができます。まず、本作では、混沌としたゴッサムの中で、シリアル・キラー/リドラーとの戦いが描かれます。これを聞いて、映画ファンならば、真っ先に『セブン』を思い出すと思います。マット・リーヴス監督は、本作に関しては、過去作から様々な影響を受けたと公言していて、残念ながら『セブン』は入っていないのですが、フィルム・ノワールから大きな影響を受けたと公言しています。思えば、『チャイナタウン』は探偵が街の大きな暗部に踏み入っていく作品です。また、権力者や警察の腐敗、という点からは、『大統領の陰謀』の影響を公言し、言及こそはしていませんが、『セルピコ』を彷彿とさせます。そしてこれらはただの引用に終わらず、「最新のバットマン映画」をして昇華されるよう調整がなされています。つまりは本作は、アメコミをそのまま「映画」にするためにはどのような作品を引用すればよいのか、という思考錯誤を見ることができる作品なのです。
 
 では、以上のような引用がどのように昇華されているのか、というと、リドラーの背景を貧困層として、をバットマンの合わせ鏡にすることで、「バットマン=ブルーズ・ウェイン」という大富豪との対比をさせています。リドラーシリアルキラーであり、何人も人を殺してきました。しかし、その動機は「ゴッサムを浄化する」ためであることが捜査で判明します。これはバットマンと同じです。しかし、バットマンが日々やっつけているのはチンピラであり、しかも執拗に暴力をふるい、助けた側にも怖がられる始末。対して、リドラーが殺したのは、言ってしまえば、ゴッサムのダニであり、権力に居座り、甘い汁をすすっていた奴らなのです。「チンピラをやっつけるコウモリのコスプレをした大富豪」と、「腐敗した権力者を一掃したシリアル・キラー」。犯罪を正当化したくはありませんが、どちらが「ダークヒーロー」かは一目瞭然かと思います。
 
 しかも、貧富という点を見れば、ブルース・ウェインは、その富を貧しい人に分け与えようとはせず、チンピラを倒すために使っています。これはブルースがまだ未熟だからという点がありますが、ノブレス・オブリージュな精神のバットマンにはまだ遠いわけです。ちなみに、この「貧困層の怒り」という要素は、(監督は影響ないって言ってるけども)『ジョーカー』を彷彿とさせますし、「社会の上と下」が分断され、「下」の人間が足を引っ張り合っている、という点は『パラサイト 半地下の家族』を彷彿とさせます。
 この対比は、バットマンという存在の批評にも繋がります。『レゴバットマン ザ・ムービー』でも弄られていましたが、バットマンはコウモリのコスプレをして、夜な夜な暴力をふるう犯罪者です。この点を本作は意識的にとりこんでいて、現場にスーツで来るバットマンが妙におかしいし、中盤のカーチェイスでは、周りの車を破壊しまくり、爆発させまくってペンギンを追い詰めます。ぶっちゃけ、外部の人間からしたら、ペンギンよりバットマンの方がよっぽど悪役です。これはブルース・ウェインの自警活動の動機が、「正義」よりも「復讐」にあるからだと思います。そんな彼が、自身の合わせ鏡であり、同じくゴッサムに復讐し、変えようとしているリドラーと対峙し、「復讐」では何も変わらないと悟ります。だからこそ、ラストに彼はあの行動をとったのだと思います。復讐で悪を執拗にやっつけるのではなく、目の前の人を救助する、ということを。そしてそのとき、バットマンゴッサムシティという、闇に包まれた街に初めて灯りをともせる「希望=ヒーロー」になったのだと思います。これは、デント殺しを被ることでデントという希望を残し、自らがダークナイトとなる事で街を護った、『ダークナイト』と真逆の結末です。
 
 この点は、現代において、非常にタイムリーな内容だと思います。貧富の差が拡大し、新型の感染症が蔓延し、さらにはロシアという大国がウクライナ侵略戦争を仕掛けた今、世界は混沌の中にあります。それはゴッサムシティを覆っていた、出口の見えない闇そのものです。序盤のバットマンのように、もはや「悪」をやっつければ世の中が変わる時代は終わってしまった。ヒーローにできるのは、目の前の人を救い、民衆が変わろうとするのをサポートすることくらいなのかもしれない、ということを考えました。つまり、本作は、混沌とした闇の中から光を見つける物語であると言えるのです。余談ですが、これがブルースの救済にも繋がってくるので、ひょっとしたら本作はセカイ系の系譜にあるかもしれません。
 

 

符合する点が多い作品。

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ノーラン版バットマン

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喪失と再生と、西島秀俊の「空虚さ」について【ドライブ・マイ・カー】感想

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94点

 

 濱口竜介監督の本作は、村上春樹の短編集「女のいない男たち」の中にある一編の同名小説をはじめとして、いくつかの短編を統合して原作としています。脚本は濱口監督と共同で大江崇允さんが務め、カンヌ国際映画祭において、脚本賞を受賞しました。これ以外にも、諸外国で小レースを席巻し、2021年度アカデミー賞において、日本映画史上初の作品賞を始めとする4つの部門にノミネートされるという大快挙を成し遂げました。

 

 舞台演出家の家福は、愛する妻である音と共にそれなりに幸せな日々を送っていた。しかしある日、家福が家に帰ると、音は突然亡くなってしまっていた。家福に1つの秘密を残したまま・・・。2年後、喪失を抱えた家福は広島国際演劇祭で「ワーニャ伯父さん」の演出を依頼され、愛車で広島へ向かう。家福はそこで寡黙な女性、みさきというドライバーと出会う。さらに、かつて音から紹介された高槻という男にも再会。「ワーニャ伯父さん」の演出を通し、家福の喪失と向き合う日々が始まる。

 

 濱口監督は、常に「コミュニケーション」を題材に映画を作ってきた方です。『ハッピーアワー』では30代後半を迎えた女性4人の友情がとある「秘密」が発覚したことで崩れ始めるという内容でしたし、前作の『寝ても覚めても』も2人の全く同じ姿をした男性を愛した女性の話で、これも胸に抱えた「秘密」が露呈することで関係性が一旦、完全に崩壊してしまう話でした。ちなみに、脚本のみを担当した『スパイの妻』も、「秘密」を抱える夫婦(及び国)の崩壊の話だったと思います。ここには常に、他者の理解/無理解というディスコミュニケーションがあったと思います。

 

 

 本作においてもそれは健在であり、最初のショットからそれは示唆されています。ベッドで寝ている家福と音のシーンで、起き上った音を捉えたファースト・ショット。家福から見た音は全身が影であり、抑揚のない話し方をしています。このショットの通り、音という「他者」は「分からない」存在として我々の目の前に表れます。しかもこの2人は職業上、生活そのものが「演劇的」に見えてしまいます。

 

 ウラジオストック演劇祭に旅立つはずが、飛行機の欠航によって一旦家に戻った家福は、音の情事を目撃してしまいます。家福はそこで何をするでもなく、動揺してその場を去ってしまいます。その後、ホテルで連絡を取ったとき、音が平然としているのを確認し、家福は、そして我々観客も、音の考えていることが分からなくなってしまいます。つまり、音はファースト・ショットのまま、「分からない」存在なのです。そんな中訪れる、音の死。これで家福と観客は、音の真意が分からないまま、生殺し状態になります。前置きが長くなりましたが、本作は、この「自らの気持ち」に目を背けていた家福が、そこに向き合い、自分の気持ちに折り合いをつける映画です。

 

 「妻の喪失に向き合う」映画として思いつくのは、近年では2016年に公開された日本映画『永い言い訳』です。『永い言い訳』では、本木雅弘演じる主人公が、自分の気持ちに気付くまでの話でした。本作もこの点は共通しているのですが、相違点としては、『永い言い訳』は、本木雅弘が全力で男性の持つ劣等感とか、めんどくさい生々しい感情を赤裸々に描いていたの対し、本作では「妻の真意」と共に、「家福の真意」も今一つ分からなくなっている点です。これは西島秀俊という俳優を起用した点が大きいと思います。西島秀俊という方は、巷で時々、「台詞棒読み」みたいに言われることがあります。しかも、演技をしているのだけど、どこか真意が分からない、空虚な印象を観客に与える俳優です。個人的に、この点が村上春樹主人公みたいだと思えます。本作はこの点に全力に全力で依拠した映画になっています。

 

 

 「西島秀俊の空虚さ」という点では、思いつくのはやはり日本映画で、2016年公開の『クリーピー 偽りの隣人』です。『クリーピー』では、基本的な話としては、西島秀俊演じる大学教授が引っ越した家の隣にいた香川照之というサイコパスと対決するというものなのですが、その実は西島秀俊こそが真のサイコパスであり、彼に囚われてしまった奥さん(竹内結子)の絶望で幕を閉じた作品でした。『クリーピー』も西島秀俊の空虚さに全力で寄りかかっている作品で、彼の持つ空虚さを悪用しまくった作品だと思います(故に傑作なのですが)。

 

 本作も基本的には同じではあります。しかし、ベクトルが全く異なります。本作では、西島秀俊の空虚さに依拠はしていますが、それは「真意の分からなさ」を体現させるためであり、彼の持つ空虚さと、濱口監督の、劇中で家福が行っていたような演出によって、「妻の喪失にどう思っているのか分からない男」を成立させているのです。だからこそ、度重なる問いかけと自問の末に、最後に台詞を吐露したとき、そこには大きな感動があるのです。

 

 ラスト、更にダメ押しとばかりに舞台上で「ワーニャ伯父さん」の最後の台詞で〆。「喪失を抱えたまま、この世界を生きよう」という決意に繋がります。この点も他の濱口作品に共通している点で、『寝ても覚めても』における清濁入り混じった川を唐田えりか東出昌大が横並びで眺めているショット、『ハッピーアワー』におけるラストにも観られます。つまりは、「人と人の間には秘密があり、例え関係性が変わってしまったとしても、それを抱えながらも、この清濁入り混じった世界で生きていかなければならない」という意志です。濱口監督作品はどれもこの「前向きさ」があるのですが、本作にも、それを読み取ることができるのです。

 

 

西島秀俊サイコパスぶりが観れます。

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監督の前作。

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清算と救済とオリジン【スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム】感想

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92点
 
 
 2017年の『スパイダーマン ホームカミング』から続く、MCU版『スパイダーマン』の第3作にして、完結編。監督は全2作から引き続きジョン・ワッツが担当。脚本にはクリス・マッケナとエリック・ソマーズらが続投。本作は、予告編が公開されたときからマルチバース化、歴代ヴィランが総登場することが示唆され、大いに話題を呼んでいました。その話題性も相まって、公開直後からは北米では驚異的な興行を維持し、歴代の興行成績ランキングでも上位にくる成績を残しています。私も予告を観たときから楽しみにしており、鑑賞してきました。
 
 ミステリオに正体をばらされたピーターは、何とかしようとドクター・ストレンジを頼る。ストレンジの魔術によりみんなの記憶からスパイダーマン=ピーターの記憶を消してもらおうと考えたものの失敗し、マルチ・バースからヴィランがやってきてしまう。今、彼らとピーターの激闘が始まる・・・。
 
 映画『スパイダーマン』シリーズは、SONYとMarvelスタジオとの間にある、「大人の事情」の歴史でした。Marvel、いや、全アメコミヒーローの中でも屈指の人気と知名度を誇っているにもかかわらず、映像化権をSONYが持っているため、MCUへの参加が『シビル・ウォー』になってしまったということはMCUファンならば皆知っている事でしょうし、過去のサム・ライミ版やマーク・ウェブ版『スパイダーマン』は、興行的、もしくは制作陣の意見の相違といった理由でシリーズが打ち切りの憂き目に遭っています。本作はこれら過去に製作されながらも打ち捨てられていた映画作品にMarvel自身が1つの決着を用意してみせるという作品でした。この点でいちばん近いのは2019年に公開された『スパイダーマン:スパイダー・バース』ですが、あちらは膨大な数にのぼるコミックからそれぞれのスパイダーマンが参戦し、全てを肯定してみせるという作品でした。翻って、本作が肯定してみせるのは「映画」であるという点が違う点です。
 スパイダーマンとは、「マスク」のヒーローです。ピーター・パーカーは「人間」としての側面と「ヒーロー」としての側面を持ち、それをマスクをつけることで分けていました。それはそのまま本作に出てくるヴィランにも言えます。本作に出てくるヴィランは、元々は善良な人間だったのですが、意図せずに「力」を手に入れてしまったことで「悪」の道に入ってしまいます。グリーン・ゴブリンは、ノーマンが自ら作った装置によって二重人格が増幅された結果生まれた存在ですし、ドック・オックは、高潔な科学者でありながらも、やはり自ら作成したアームに乗っ取られ、悪になります。リザード、エレクトロ、サンドマンも同じで、本作に出てくるヴィランは、「力を持ってしまったが故に悪になってしまった」という点で、「大いなる力には大いなる責任が伴う」という自覚を持ったピーターの合わせ鏡であると言えます。そして彼らとの戦いは必ず悲劇で終わります。ピーターは、彼らを「倒す」ことはできましたが、「救う」ことはできていませんでした。そしてそれ故に、「スパイダーマン」としての責任を背負うこととなります。
 
 本作は、このような「悪」の道に入ってしまったヴィランを「治癒」することで、彼らに人生をやり直す機会を与え、同時にピーターが背負ってきた「責任」の十字架を幾分か降ろさせたのだと思います。そしてこれは、ヴィランスパイダーマンだけではなく、過去に製作された映画たちの清算にもなっています。「完結」しなかった過去作のその後のピーター・パーカーを召喚させることで彼らのその後を示唆し、その上で未回収だった部分を救済させます。大きく救済されたのは何と言ってもアンドリュー・ガーフィールド版だったかと思います。MJが自由の女神から落下したとき、彼女を「キャッチ」したときの感動は格別なものでしたし、彼のその後を聞いた後だと、余計に彼の救済になれたのかと思います。トビー・マグワイア版においても、『3』で有耶無耶になっていた点に決着をつけさせます。
 
 本作は上述の「清算」の側面を強く持った作品ですが、同時に「トム・ホランドスパイダーマン」のオリジンでもあります。この点も多分に『スパイダー・バース』と同じ構成です。あちらもマイルス・モラレスのオリジンでした。マイルズは他のバースから来た先輩スパイダーマンの力を借り、「スパイダーマン」として成長しますが、本作のトム・ホランドも同じです。本作の後半は、サム・ライミ版、マーク・ウェブ版『スパイダーマン』1作目と構造が似ています。特にメイおばさんの下りは、ベンおじさんがメイおばさんに代わっただけで、彼女を殺されたピーターが復讐にかられる点など、要素だけ見れば酷似しています。しかし、憎しみにかられたトムホをトビー、アンドリューの2人が諭すことで「悪」の道に逸れることを回避させます。
 トムホ版『スパイダーマン』は、基本的にアイアンマン/トニー・スタークの尻拭い的な話ばかりでした。完全に巻き込まれる形で活躍をしていたトムホピーターでしたが、ここで遂に自らが起こしたことの責任を背負ってみせます。それがラストであり、皆の記憶からトムホピーターの記憶が消えても、「スパイダーマン」は消えない。トムホピーターは最後に新たな「ホーム」に辿り着くわけですが、そこからのスウィングは、哀しさはあれど、非常に感動的でした。というのも、あのシーンは「責任」を自覚したピーターが、「スパイダーマン」として生きることを覚悟したシーンだからであり、「マスク」のヒーローであるスパイダーマンのオリジンの帰結として、圧倒的に「正しい」と思ったからです。確かに、これでSONYとの契約が切れることを考えれば、後でどうとでもできるようなこの結末には「大人の事情」を察してしまいますが、それはそれです。
 
 斯様に本作は、「スパイダーマンの過去作の清算を利用してトムホ版スパイダーマンのオリジンをやってしまう」という非常にエクストリームな内容で、しかもそれがちゃんとできているという、奇跡的なバランスの作品でした。これはこれで「大人の事情」を察してしまうし、最後のアクションが観にくいという欠点もあるし、そもそもこれは映画なのか?という疑問ありますが、ひとまずは全てのスパイダーマンに、ありがとうと言いたいと思います。
 
 

トムホ版過去2作。

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要はこれの実写版という話。

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最後にちょっとだけ出てたよね。

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ぶつかる正義【レイジング・ファイア】感想

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73点

 

 「香港のマイケル・ベイ」に異名?を持つ、ベニー・チャンの遺作。全ての悪を憎むボン刑事を、ドニー・イェンが熱演。彼の元弟子だが、道を違ったンゴウをニコラス・ツェーが演じます。最初はそこまで興味が無かったのですが、映画秘宝で加藤よしきさんが「人生は苦難の連続だが、『レイジングファイア』を観れば何とかなります」と言っていたので、俄然興味が湧き、鑑賞した次第です。

 

 熱血刑事ボンは、長らく追ってきた極悪犯罪者ウォンの薬物取引に踏み込む日がやってきた。ボンは直前になって外されてしまうが、取引現場に何者かが乱入。ボンの盟友を死に至らしめ、ブツを横取りされてしまう。復讐の怒りに燃えるボンだったが、やがて捜査線上に驚くべき人物が浮上する。ボンの元弟子的存在であり、元エリート警官だったンゴウ。ボンとンゴウ、2人の男の正義が、今、激突する。

 

 本作はとにかく「大仰な」映画で、BGMや演出で映画内の感情を盛りまくります。悲しいシーンでは悲しげなBGMが大音量で流れ、皆が奮起する「あがる」シーンには熱血BGMがかかります。この大袈裟な、言ってしまえば過剰な演出に乗れるかどうかが重要で、私は乗れませんでした。

 

 話はシンプルで、あらゆる悪を憎むボン刑事が、自身のダークサイドとも言えるンゴウと対峙し、正義を貫く話です。ドニー・イェンがこの熱血刑事を文字通り熱演していて素晴らしいし、対するニコラス・ツェーも、エリートさと悪に堕ちた感じが大変素晴らしかった。

 

 見どころは何と言ってもアクション。中盤の建物の中や屋根を縦横無尽に駆け回るアクションなど、アクションになると途端にスピードが上がり、フィジカル・アクションが観られます。そして何と言っても、終盤の『ヒート』にインスパイアされたと思しき市街のガンアクションと、そこから教会になだれ込んでの2人のフィジカル・アクションが最高で、あそこだけでも素晴らしかったです。まぁ、ガンアクションは、どちらも同じような服装をしているから、どっちがどっちか分からない、という問題はありますが。

 

ドニー・イェン主演作。

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迫りくる悪【ただ悪より救いたまえ】感想

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78点

 

 ファン・ジョンミン演じる孤独な殺し屋インナムと、彼に兄を殺され、執拗に追跡する殺し屋レイの激突を描いた韓国ノワール作品。監督は本作が2作目であるホン・ウォンチャン。彼はファン・ジョンミンが怪しげな祈祷師を演じた『哭声 コクソン』で脚本を執筆しています。そして撮影監督には『パラサイト 半地下の家族』のホン・ギョンピョがつきます。

 

 インナムは、日本での仕事を最後に引退を決意する。しかし、かつての恋人が殺され、インナムとの間にできた娘が誘拐された。インナムはバンコクに赴き、誘拐関係者を次々に拷問にかけて追跡を始める。しかし同時に、兄を殺された殺し屋レイも復讐のためにインナムの追跡に乗り出していた。2人の壮絶な殺し合いが、バンコクで繰り広げられる・・・。

 

 本作の監督は、ナ・ホンジン監督作『チェイサー』も手掛けていたそうで、「2人の男が追跡劇を繰り広げる」という点はよく似ています。面白いのは、この追跡が、どんどん規模が大きくなり、追跡に参加する組織が増えていく点。最初はレイ→インナム→誘拐組織という感じだったのが、バンコクの警察、誘拐組織、レイが手を組み、巨大な集団となってインナムを追跡していく様は、映画のスケールがどんどんアップしていくようでした。

 

 ホン・ギョンピョの撮影も素晴らしい。特に日本の撮影は素晴らしくて、知っている、馴染みのありそうな風景を撮っているのに、全体的に冷たい印象を与える青みがかった画面は、インナムの孤独を画面で象徴しているように思えました。そこからバンコクに移ってからはギラギラした、圧倒的熱量を持った画面に切り替わり、映画のトーンもそこに合わせてどんどんボルテージが上がっていきます。画面とストーリーのトーンが一体になっていたという点で、とてもいい撮影だなぁ(小並)と思いました。

 

 ただ、不満はあって、というのも、とても惜しいと感じたから。序盤の日本のシークエンスは、画面やトーンから韓国ノワールを逸脱した何かになれそうな気配を感じたのですが、最終的に「無難な韓国ノワール」になってしまったのは、少しだけ残念でした。

 

 

ホン・ウォンチャンが脚本を執筆した作品。

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2021年新作映画感想集⑤

【クー!キン・ザ・ザ】

クー!キン・ザ・ザ

42点

 1986年にソビエト連邦にて公開され、カルト的な人気を博したディストピアコメディー・SF映画のアニメ版。監督はオリジナルの実写版と同じくゲオルギー・ダネリヤ。設定の一部に変更はありますが、基本的な内容は同じだそうです。

 世界的なチェロ奏者のウラジーミルとDJ志望の甥・トーリクは、ある日、宇宙人のテレポート装置によって別の惑星に飛ばされてしまう。星の住民の言葉は「クー」と「キュー」のみ。不思議な惑星の中で、2人の地球へ帰還する旅が始まる。

 アニメーション的に優れているとは思えないですし、話のトーンも、不思議なテンポ感ではありますが、スローで退屈。不思議な惑星ということで、その惑星独特の文化やガジェットで楽しませてくれればいいのですが、その面も弱い。ハッキリ言って、対して褒めるところがない作品でした。強いて言うなら、メインの宇宙人2人が良い感じにがめつくてムカつく感じですかね。嫌い、というほどではないですが、無味乾燥、という点で、今年ワーストの1本。

 

 

【マルコム&マリー】

マルコム&マリー

62点

 2021年2月5日よりNETFLIXで配信。主演は『TENET』のジョン・デヴィッド・ワシントンとMCUスパイダーマン』シリーズのゼンデイヤ。監督は「ユーフォリア」などの脚本家であるサム・レヴィンソン。ちなみに、ゼンデイヤとは「ユーフォリア」で仕事を一緒に行っています。

 映画監督であるマルコムは、妻であるマリーと共に、ある授賞式から上機嫌で帰ってくる。賞を獲得した喜びとアルコールに酔った勢いでどんどん話をするマルコム。一方、マリーは終始不機嫌な顔で、マルコムにハッキリと自身の意思表示をする。それが2人の、壮絶な口論の始まりだったのだ・・・。

 本作は全編モノクロで撮影されています。おかげで、授賞式で華々しい成績を収めた夫婦を撮ったとは思えないほど、画面からは冷え切った印象を受けます。それはカメラワークにも表れていて、マルコムを捉えるカメラは躍動感あふれるものなのですが、マリーを捉えるカメラは静的。つまり、この時点で2人には決定的な温度差があることが分かります。

 この妙な温度差が何故起こっているのかは、2人の口論から分かってきます。そこにあるのは、夫婦という、一筋縄ではいかない関係性であり、約100分ほどの映画の中で2人の力関係や不平不満があっち行ったりこっち行ったりする展開はとても面白く、同時にスリリング。そのため、本作は必然的に長回しが多いわけですが、ジョン・デヴィッド・ワシントンとゼンデイヤはそれにしっかりと応えており、さすがと言わざるを得ません。ラスト、2人が外で窓の淵内に収まったショットからは、私はこれからの2人の前向きな未来を感じ取れました。

 

 

【グリード ファストファッション帝国の真実】

グリード ファストファッション帝国の真実

75点

 人気ファストファッション・ブランドのTOPSHOPを擁しながらも、2020年に破産したフィリップ・グリーン卿をモデルとした作品。監督はイギリスの名匠・マイケル・ウィンターボトム。主演はウィンターボトム作品の常連であるスティーヴ・クーガン。財を成した富豪の薄っぺらさ痛烈に描いた、ブラック・コメディ映画です。

 舞台はエーゲ海のミコノス島。そこではファストファッション界で帝国を作り上げたマクリディの誕生パーティーの準備が行われていた。彼はスキャンダルで進退窮まっており、ここで一発豪勢なパーティーを行い、威厳を世界に知らしめたい、という狙いがある。それと並行して、マクリディのサクセスストーリーが痛烈な批判込みで語られる。混沌とするパーティーは、無事に開催できるのか!?

 本作に一貫しているのは、マクリディの「薄っぺらさ」でした。話の軸となっているパーティーはそもそも「自分を大きく見せたい」という虚栄心で成り立っており、円形闘技場はハリボテで、名言や格言は『グラディエーター』とかアプリから引用して、教養が無いこともバレバレ。大物ゲストからはパーティーへの出席を却下され、仕方なくそっくりさんを連れてきたりしたり、「俺は難民出身だから難民の気持ちが分かるんだ」とドヤ顔で語っていたかと思っていたら景観の邪魔とか言ってシリア難民を追い出してしまうなど、とにかく「見せかけ」だけの人物として描かれます。

 経済で利益を出す方法の1つは、安く作って多く売る、です。人件費を可能な限り安く抑え、単価を安くし、それを大量に売りさばく。それによって利益を出す。今、世界中で行われている資本主義の搾取構造です。本作のマクリディも、この方法でのし上がってきました。その過程を「サクセス・ストーリー」として皮肉たっぷりに描いてみせ、資本主義の本質を炙り出してしまいます(日本ではユニクロの社長の柳井さんとか、後は竹中平蔵が代表例)。そうして築き上げてきた帝国は、我々の社会にしっかりと根を下ろし、我々の生活の一部になってしまっています。我々自身も、この搾取構造の一角を担っているのであり、それを改善しない限り、「帝国」は終わらない。そう思えた映画でした。

 

 

【クルエラ】

クルエラ

70点

 『101匹わんちゃん』に出てくるヴィラン、クルエラのオリジン。監督は『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』のクレイグ・ギレスビー。脚本は『女王陛下のお気に入り』のトニー・マクナマラ。主演のクルエラは『ラ・ラ・ランド』のエマ・ストーン。クルエラの最大の敵のような存在として、エマ・トンプソンも出演している。

 ディズニー初のパンク映画。だと思う。伝統的なファッションではなく、自由な服装で下剋上を図るクルエラを力強く描きます。これには、「型」にハマることなく、「私は私のままで生きる」という強い意志を感じ、凄く良いなと思う。

 『アイ、トーニャ』のような突飛な語り口は鳴りを潜めてはいますが、主人公が2人の男性と犯罪に手を染めていく、敵な話は似通っていますし(こっちは復讐劇であり、ちゃんと成功するという違いはありますが)、ファッション界のパワーゲーム的な側面は『女王陛下のお気に入り』感があります。

 ただ、「ヴィランの誕生」という割には、敵側がゲスなので、クルエラにヴィラン感があまり感じられないという問題はあります。後、少し長い。

2021年新作映画集④

【21ブリッジ】

21ブリッジ

 

77点

 

 70年代に製作されたアメリカ映画の風格が漂うクライム・アクション。チャドウィック・ボーズマンの遺作でもあります。

 監督のブライアン・カークはマイケル・マンの影響を公言しているらしく、本作にもその影響が随所に観られます。まず撮影がマン監督の『コラテラル』と同じポール・キャメロンで、ニューヨークの街並みを実に色気のある画面に仕立てています。また、1夜の物語である点も共通しています。

 作品の内容もマン監督が製作している70年代アメリカ映画の風格を持つクライム・アクションであり、『フレンチ・コネクション』のような、逃亡犯との電車乗る乗らないの駆け引きがあったり、黒人警官の話である点から、シドニー・ポワチエ主演の『夜の大走査線』を思わせます。

 しかし、本作はジャンル映画としてだけでは終わりません。現代の問題を上手く盛り込み、そしてそれがタイトルである「21ブリッジ」に繋がっていきます。この作りはとても巧みであり、息を呑みました。そしてこの問題に真摯に向き合い、自身の正義を全うするチャドウィック・ボーズマンの姿には、『ブラックパンサー』以降、彼自身が背負ってきたものが見えました。

 

チャドウィック・ボーズマン主演作。

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【ザ・スイッチ】

ザ・スイッチ

 

77点

 

 「私たち・・・」「俺たち・・・」「「入れ替わってる~!!!」」(BGM:RAD WINPS「前々前世」)。殺人鬼と女子高生の中身が入れ替わってしまった!という、出オチ感満載のネタ1つで約100分映画を引っ張るというもの凄い映画。とはいえ、さすがはクリストファー・ランドン、普通に楽しんで見ることは出来ました。

 本作は、これまでのホラー映画的な「お約束」をひねった形で出しています。まず、「女子高生と殺人鬼」という、狙う側と狙われる側(ファイナル・ガール)が入れ替わるという設定自体がそうです。しかもそれによって、さっきまで『ハロウィン』のブギーマンみたいな感じだった殺人鬼のおっさんが女子高生感丸出しのリアクションをしたりする面白さが生まれ、地味な女子高生は急にクールになって学園でちやほやされます。しかも、女子高生の姿で殺人を行ってくれる関係上、殺し方に創意工夫が凝らされてます。殺される連中は皆ゲスい奴らで、この辺には一種の爽快感があります。この点は、本作に学園ものを組み込んだことがかなり上手く機能していると思います。話自体はガバガバだし、時計の伏線をもう一度繰り返したときは勘弁してくれと思ったが、楽しめました。

 

 

【楽園の夜】

楽園の夜

 

78

 

 『The Witch 魔女』のパク・ジョンフン監督の韓国ノワール。ある組織より狙われた男、テグと、身を隠した先で知り合った少女、ジェヨンの物語。

 ジェヨンのオリジンみたいな映画で、どこにも居場所のない彼女がテグと心を通わせながらも引き裂かれてしまう。そして覚醒し、敵対する組織の構成員全員を血祭りにあげる展開は壮絶ながらも痛快。本作の主演は実質彼女と言っても良い。あのラストには、北野武監督の『ソナチネ』感を覚えました。

 逃走するテグだけど、味方だと思っていた人間が本性を表し、どんどんクズになっていって、逃げ場がなくなってしまう展開は辛い。面白いのは、味方だと思っていた人間がクズ化するのとは逆に、敵側のマ理事の魅力が増していく点です。しかし、彼の中にある、「生きのびる」という執念が生み出すアクションの勢いはさすが韓国映画って感じです。

 ショットも計算されていて、テグが逃走をするシーンなどは暗く、差すような冷たさが感じられ、ジェヨンと交流をするシーンでは暖かな印象を受けます。ここから、テグにとって、ジェヨンとの交流が結構かけがえのない時間であったのだと分かります。逆もまた然りです。

 

 

【JUNK HEAD】

JUNK HEAD

 

80点

 

 堀貴秀監督が個人制作で完成までこぎつけた、『DAU』プロジェクトとはまた違った、ストップ・モーションアニメでSF超大作をやってしまおうという、常識的には考えられない試みを実践してしまった狂気の作品です。

 ビジュアルはハッキリ言ってグロテスク。男性器的なデザインのクリーチャーがたくさん登場し、残虐なシーンも多いです。生理的な嫌悪を覚える箇所も多々あります。しかし、それとは裏腹に、本作のトーンそのものはコメディで、笑ってしまうシーンも多い。キャラクターが基本的に皆惚けていて、妙な愛嬌があることもこの雰囲気作りに貢献しています。そしてしっかりと最後には泣かせてくれるという素晴らしい設計。

 全てが手作りであり、全シーンがセンス・オブ・ワンダーというか、観ていて工夫が感じられて楽しい。キャラは作り物のはずなのですが、ちゃんと生命が宿っており、動いているように見えます。アクションシーンもとてもクール。本作は主人公の冒険ものの側面もあるのですが、それが世界観の紹介にもなっています。どうやら本作は『JUNK HEAD』プロジェクトの1作目であるらしく、そのためか作品そのものは途中で終わっています(この辺も『DAU』っぽい)。まだまだ広がってゆくであろう世界観が、今から楽しみです。

 

スタジオライカ作品。

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