暇人の感想日記

映画、アニメ、本などの感想をつらつらと書くブログです。更新は不定期です。

効率化ではなく、前に進むための「捨てる」行為【ハッピー・オールド・イヤー】感想

ハッピー・オールド・イヤー

 
56点
 
 
 きっかけはポパイの映画特集で取り上げられていたことでした。ここで存在を知り、観てみるか、と思ったのですけど、何やかんやで時間が取れず、観るのが年を越してしまいました。
 
 「断捨離」という言葉があります。端的には不要なものを断ち、捨て、「もったいない」という固定観念から解放され、身軽で快適な生活を手に入れる、という思想です(by Wikipedia)。主人公はこの思想にかぶれ、「ミニマル主義」を標榜。家にある、大量の「不要なもの」を捨てにかかります。しかし、誰にも経験があるとは思いますが、「物」には思い出があるんです。1つ1つの物に思い出があり、それを捨て去ることなどできないのです。そこに主人公が気付くというのが、本作の内容です。
 
 「物に思い出がある」ことを見せるために、ある特定の「物」に対する思い出が、オムニバス形式に近い形で語られます。これはこれで良いのですけど、正直、似たような展開が続くし、しかも1つ1つが淡々としているということで、ちょっと単調になってしまっている感は否めませんでした。ただ、これらを経て、「効率化」のために捨てるのではなく、人生を前に進めるために「捨てる」選択をした主人公は、最後に少しだけ成長したのだと思います。
 
 こう考えると、本作は「捨てる」映画であるということが分かります。近年は「断捨離」という言葉が流行し、「捨てる」ことで身軽になることが大切、余計なものは捨てることが効率的である、みたいな効率優先の思想が流行っていますけど、本作はそこから真向に反対しています。「物」には思い出とか思い入れがあり、それらは効率とかで切り捨てて良いものじゃないんだよという。しかし、「捨てる」ことは必ずしも悪い事ではありません。人生においては、何かを「捨て」、ある重荷から自由になる事も重要だからです。これによって、人生を前に進めることもできます。これこそが人生のおいて必要な「断捨離」であり、そこに気付いた人間の物語が、本作だったのだと思います。

ブログを開設して4年が経ったという話

 皆様。こんにちは。いーちゃんです。早いもので、ブログを開設してから4年が経ちました。ここまで続けられてのは、私の拙い記事を読んでくださっている皆様のおかげです。本当にいつもありがとうございます。

 

 この1年でブログの更新がかなり減りました。仕事が忙しくなり、ブログの執筆速度と映画とアニメの鑑賞速度が追い付かなくなってきてしまったことが原因です。今回の周年記事も、例年は8月に出しているのですが、今年は1カ月遅れてしまったのも同じ原因です。何とか改善したく思っているのですけど、そもそもPCの前に座る時間が減っているので、もうスマホで書くしかないのかなと考えているこの頃です。とにかく、映画の感想を何とかして書いていかねばと思っています。

 

 とりあえず毎年恒例で、ここ1年で思い出深い記事を何本か挙げていきたいと思います。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

 

 

あの事件後の京アニ作品。それ抜きでも大号泣。

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特大ヒットしましたねぇ。今年、また新作やるし、人気は続くね。

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ずっと書きたかった歴代相棒に関する所感。

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私生活ではここ数年でいちばんのライフハックipad購入感想。

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2020年のベスト記事

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「鬼滅」の流れに上手くのり、こちらも大ヒット。

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エヴァも終わったねって記事。

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2021年春アニメ感想⑧【86ーエイティシックスー】

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☆☆☆☆(4.4/5)
 
 
 安里アサト先生原作で、電撃大賞を受賞した同名タイトルのライトノベルをアニメ化した作品。「キノの旅」の時雨沢先生が大賞に推したという話を聞き、興味はあったこと、スタッフの座組的にアニプレックスが本腰で作ろうとしているなと感じられたことなどから、今回視聴しました。
 
 結論から言ってしまうと、素晴らしかったです。本作のメインテーマには、間違いなく「分断」があると思うのですけど、視覚的にそれが演出されているなと思いました。この分断というのは、つまりは「86」と言われるスピアヘッド戦隊と、主人公であるイレーナ達の間にある溝のことです。本作では、少なくとも第1シリーズでは、直接会いません。「イレーナサイド」と「86サイド」が交互に語られる語り口は両者の視点の違いが浮き彫りになる作りになっていて上手いのですが、同時に「一緒の画面に収まらない」ことは両者には埋めがたい分断があるのだと示されます。それは生活ぶりから明らかで、イレーナ達は綺麗な場所に住み、衣食住に困らないのに対し、86側は不衛生な場所に住み、上官からは差別的な言葉をぶつけられ、明日には死ぬかもしれないと示されます。また、イレーナは86を「人として扱う」という非常に人道的な心情から交信を続けるのですが、それに対して86側は非常に冷淡。これまでの扱いを考えれば当然の反応ですが、この温度差が画面に嫌な緊張感をもたらしています。
 
 この緊張感が決壊するのが第4話で、「人道的に接していた」と思っていたイレーナは、内にある、無自覚の差別意識を指摘されてしまいます。あのシーンはセオトの長台詞をイレーナの反応を見せつつ映していて、これまでため込んでいた緊張感と不安が一気に決壊する名場面でした。この、「無自覚な差別意識」だったり、イレーナの行動がどこか偽善的に見えてしまうという作りには、時雨沢先生が好きになる理由が分かった気がしました。ここから盛り返して、イレーナは86を真の意味で「人」として扱うようになるわけで、彼女の精神的な成長が鮮やかに描かれています。安里先生はインタビューで、本作で描こうとしたものは「他人を自分と同じ人間として尊重すること」だと言っています。4話から続く流れは、彼女の志が見事に出ていたと思います。
 この「分断」を拡大すると、本作は時代の流れに沿った作品だったかなと思います。本作におけるサンマグノリア共和国は、レギオンに対抗するため、「人が死なない」自立型戦闘機械を開発した、という表向きの史実を作り上げ、その裏では一部の人種を「86」として迫害し、強制収容所へ送り、「自立型戦闘機械」に乗せて国の平和のために戦わせているわけです。イレーナはこれに心を痛め、何とか状況を改善したいと思っているのですが、視聴者からは上述の演出によって「偽善的」に受け取られてしまい、劇中でもジェローム卿やらアネッタやら、そして86から袋叩きにあいます。「それは理想にすぎない」とか何とか。ただ、私はこれ、全く他人事ではないなと思っていて、日本でも、共和国レベルまではいかずとも、外国人労働者を安く使ったり、他国の人件費が低い国で物を作って安い値段でそれらを買っていたり、同じ国の人間でも派遣労働者を使って経費を抑えていたりします。また、世界を見渡してみても、差別などの分断はもちろん、それ以外でも貧富の差が開いたことによる分断は世界中で広がっているのです。モノが戦争から資本主義に代わっただけで、「一部の人間達の犠牲の上に生活が成り立っている」のは同じじゃないかと思ったのです。
 
 歴史的にも、似たような事例としてはナチスのナチズムがありますし、アメリカだっていまだに黒人差別が残っているわけです。また、日本にも在日の人たちには「在日特権がある」と本気で信じ、差別的言動を繰り返している馬鹿とか、「差別する自由」とか言い出す大馬鹿がたくさんいるわけで(そしてそんな人たちが支持しているのが今の自民党とか維新というね・・・)、全く他人事じゃないっすよ。こう考えると、本作が大賞を受賞し、世に出たのは世の中の流れ的に必然だったのかなと思えるのです。
 また、本作で面白かったのは、「腐った構造」がどのようにして維持されているのか、までも少しでありますが描いていた点です。大きく取り上げたいのがジェローム卿とアネッタで、ジェローム卿は大衆をどこか軽蔑している節があり、歴史を踏まえればそれはまぁ分からないでもないのですが、それでも、権力者が「人間に自由と平等は早すぎた」とか悟った感じで言ってはいけないと思います。それを何とか改善してくのがアンタらの仕事だろと思っちゃいましたし、そもそもそういう風に誘導したのは権力者だろ。責任転嫁するなよ・・・と思っちゃった。こういう、「諦め」こそが「正論」であるという姿勢を彼はとっているのかなと思いました。そして、アネッタは、事実を知っているのですが、それでイレーナのように何とかして状況を改善しようと動くのではなく、「犠牲になった人達の分の贖罪」として、自ら第86独立機動打撃群に志願したとのこと。これは、確かに罰にはなると思うのですが、自己完結しているだけなんです。こういう、「大衆は愚かだ」という責任転嫁と、諦めにも似た自己完結による罰、という2つによって、腐った体制が容認されてしまう、という構造は現実でもよく見るなと思いました。
 
 だからこそ、いくらぶっ叩かれようと立ち直って、86達と親交を深め、人として付き合おうとしているイレーナの姿が尊いわけです。確かに彼女が言っていることは理想論だし、偽善的に見えるかもしれませんが、それでも、「正論」であるには違いないわけです。苦しい道のりですが、システムを作ってしまったイレーナ達には、元に戻す責任がありますし、そうなったら、彼女のように傷ついても、1歩ずつ進んでいくしかないのだと思います。世の中は、そうやって何とか前進していくものだと思うのです。
 
 いつになく真面目なことを書いてしまいましたが、それだけ本作は示唆に富む内容が多かったということです。他には、アニメーション的にも、ジャガーノートやレギオンがとても良かった。3DCGだと思うのですけど、兵器の固さとかが音で分かってきましたし、動きも躍動感あります。また、他のミリタリー描写も、銃関係が良かったなと。何というか、スライドさせるときの動きとかさ。2期、待ってます。
 
 余談ですが、同時期に放送されていた「幼なじみが絶対に負けないラブコメ」のファンと原作者は泣いていいと思う。同じ電撃文庫で、ここまで差が出るなんて、苛めもいいとこだと思う。
 
 

原作の時雨沢先生が本作を推したらしい。

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これも電撃か。

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ガンのトロマ魂炸裂映画【ザ・スーサイド・スクワッド ”極”悪党、集結】感想

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94点
 
 
 2016年に公開された『スーサイド・スクワッド』は散々な映画でした。評価されたのはマーゴット・ロビー演じるハーレイ・クイーンくらいで、内容は散々。DCの意向が反映され、デヴィッド・エアー監督の意図とは全く違う作品が出来上がり、エアー自身は未だに「これは俺の作品じゃない」って言っています。しかし、予告編が大変出来がよろしくて、興行的には大成功します。今回の監督は何とジェームズ・ガン。自身の過去ツイートのせいでディズニーからいったん解雇されたタイミングで声がかかり、企画から白紙委任されるという前代未聞の超好待遇で迎えられました。そんな彼が選んだのが、2016年に盛大に失敗した『スーサイド・スクワッド』の続篇だったわけです。
 
 本作は、ジェームズ・ガンの世間的な出世作、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー(以下、『G.O.G』)』と似ている作品です。集められたのが世間に居場所のないポンコツ集団で、そんな彼ら彼女らが世界を救うために何やかんやで奮闘する、という筋書きは、もはや「DC版ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」と言ってもいいレベル。しかし、本作は決定的に違う点があります。それは、本作はジェームズ・ガンの古巣である、トロマ映画の精神が存分に入っている点です。

 

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 「トロマ映画」とは、ロイド・カウフマンがマイケル・ハーツと共に設立した所謂B級、Z級のおバカ映画を量産している映画製作会社、トロマ・エンターテインメントから配給されている映画たちです。内容はおバカ&エロ&グロ&ナンセンスで、およそビッグバジェットと相性が良いとは言えないのですが、本作において、ジェームズ・ガンはこのトロマ精神を炸裂させているのです。冒頭から始まる、阿鼻叫喚(笑)な地獄絵図からのマイケル・ルーカー首チョンパ、からの出血で描かれるOPクレジット。そして中盤のあまりにもしょうもない「殺人スキル比べ」、終盤の実験室のおぞましい光景や、最後に出てくるスターロ・・・。全編に亘って不謹慎&グロ満載なのです。
 
 この「グロさ」と「不謹慎」さは、ただ視覚的に楽しむものではなく(まぁガンは大半は面白がってやってるだろうけど)、そこにきちんとした批評性が入っています。序盤の反乱軍の基地を間違って襲撃する下りは、マチズモ的な思想に対する冷やかしだと思いますし(ハズしギャグも最高)、ギャグっぽく見せてはいるけど、暴力をきちんと暴力として描いています。この辺は『スーパー!』でヒーロー映画の暴力性を冷静に見つめたジェームズ・ガンの面目躍如といったところです。話全体も、アメリカが他の後進国を使って進めていた非道な実験を、使い捨ての部隊に証拠隠滅させる話であり、アメリカが過去に行ってきたことを彷彿とさせます。ここでスクワッドの面々が証拠隠滅を巡って仲間割れをするのがとても興味深く、アメリカの良心と建前の葛藤として見れます。何としても平和を守ろうとするマキャベリスト、ピースメイカーは、自国の過ちを正当な理由をつけて隠滅しようとするアメリカの暗部であり(立ち位置的にMCUキャプテン・アメリカの逆を行ってるのも興味深い)、証拠を公開しようとするリックやラットキャッチャー2は、まぁ良心なのでしょう。MCUでは、『キャプテン・アメリカ』シリーズが現在進行形で刷新していっているテーマを、本作は「暴力への批評性」を加え、やってみせているのです。
 本作で世界を救うのは、完全無欠のスーパーヒーローではありません。全員が微妙な能力を持った「自殺部隊」です。「ポンコツの集まり」という点では、『G.O.G』なんですけど、彼ら彼女らは、皆「居場所がない」んですよね。ブラッド・スポートは娘と喧嘩中だし、ピース・メイカーはマキャベリスト、ラットキャッチャー2はネズミを操る元ホームレスだし、ポルガドットマンは母親の虐待を受け、変な球が体にできる。鮫は、何だかよく分からない。そんな奴らが立ち上がるのは、自らのなけなしの良心なのです。国家のためではなく、「正義」のためでもない。そしてこれは全員が持っているもので、やる気のなかった指令室の人間達も、最後に「良心」に従い、命令に背きます。この、一般人でも、「良心」に従って行動することこそが、「ヒーロー」の証なのだというメッセージには心を打たれました。そしてそれを発揮するのが、世間的には最も「必要のない」存在であるスクワッドの面々であり、キメ手になるのがその中でも最下層のラットキャッチャー2である、というのも、実にガンらしく、素晴らしいなと思います。この点で、本作はまさしく、「ヒーローの映画」なのだと思います。
 
 つまり本作は、『G.O.G』によりジェームズ・ガンの作家性がより強く刻印され、『キャプテン・アメリカ』のようなアメリカへの自戒と批評性を備え、さらに、ヒーロー映画における暴力への批評性をも加味した作品だったと言えます。そしてそれをトロマ映画精神を全開にして送り出して見せたという、大変素晴らしい作品でした。つーか、普通に面白いですよ。これ。
 
 

DC映画たち。

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ハーレイ出演映画。

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2021年春アニメ感想⑦【Vivy-Fuorite Eye’s Song-】

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☆☆☆★(3.6/5)
 
 
 歌姫AI、ヴィヴィが、未来に起こる人類とAIの戦争を食い止めるために相棒のAIのマツモトと共に100年の旅に出るオリジナルアニメ。制作は「進撃の巨人」などで名を馳せたWIT STUDIO。監督は「はねバド!」などのエザキシンペイさん。シリーズ構成には「Re;ゼロから始める異世界生活」の原作者である長月達平さん、キャラデザには高橋裕一さんを揃えています。
 
 本作は、ヴィヴィをはじめとしたAIと人間に、作画で明確な線引きをしています。まず目を引くのは、ヴィヴィをはじめとする、AI達の動きです。「人間ではないものの動き」をちゃんとやってるのです。顕著なのがアクションで、走るシーンが凄くて、背を伸ばして手を振るという、基本的なランニングフォームを全くブレなくやっています。この「ブレなさ」が凄く「機械っぽい」。また、アクションをするときでも、人間のそれとは違い、非常に動きが「きれい」なのです。背筋を伸ばし、どこか機械的に見える動きをしています。さらにそこに、時折入る、ヴィヴィの超美麗なカット(AIスペシャルカット)も、「AIらしさ」を強調します。私見ですけど、このカットが入るとき、ヴィヴィは少なからず人間らしいというか、重要な決断をするようなシーンが多かった気がします。
 
 このように、本作は「人間とAI」を意識的に区別して描いており、その境界線が1つのテーマになっています。これに加えて、本作は13話という話数のなかに「AIと人間の共存」や「ヴィヴィの「歌でみんなを幸せにする」という使命達成の自己実現」という複数のテーマが混在しています。
 
 1つ目のテーマに関しては、ヴィヴィが「心を込める」ことに拘っている点からも見られますし、感情に乏しいヴィヴィと感情豊かと見せかけて実は冷徹なマツモトという対比にも出ていたと思います。しかし、このテーマが話を通して十分に語られたか、は正直微妙な点です。一応、ヴィヴィが作曲をする、という点で一応の達成は見てはいます。作曲というのは、人間にしかできない、創造的な行為とされています。では、ヴィヴィは何故出来たのかというと、100年の旅で、出会った人やAIから「想い」を感じ取ってきたからだと思います。「想い」という感情を受け取るという行為は人間にしかできないことで、それを成しえたヴィヴィは、確かにAIとして、最も人間に近い存在になったのだと思います。
 
 また、「歌で皆を幸せにする」という点は、「初めて曲を作った(人間に近づいた)AIのヴィヴィが、自らの歌で世界を救う」ということで何とかストーリー的、テーマ的に終わらせることができています。そしてそれが「AIと人間」の架け橋となります。ただ、本作が惜しい点は、これらのテーマが上手く合致せず、語り尽くせていなかったなという印象です。
 
 また、「歌」がテーマになっているだけあって、本作は劇中で歌われる歌のクオリティがとても高い。これは現在公開中の『竜とそばかすの姫』にも言えることなのですが、歌のクオリティが高いと、劇中の真実味が増し、物語に没入しやすくなります。この辺の手を抜かなった点は素晴らしいなと。
 
 本作は基本的に2話完結のオムニバスで、この各エピソード自体は面白かった。AIと人間の結婚やAIの人権がテーマになっていて、人間とAIの多様な関係が描かれていますし、AIに宿る「心」についても触れられています。このまとまりはとても良い。ヴィヴィとマツモトが徐々に相棒になっていく過程も、バディものとしての面白さがありました。マツモトが徐々に情が出てくるのも良い。ただ、この話がそこまで有機的に繋がらず、最終的には自分で提示したものを纏めきれなかったなという印象です。テーマは魅力的だっただけに、とても惜しい。
 

 

歌が重要な要素となっている作品。

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長月達平先生原作のタイムリープもの。

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タイムリープと恋愛の相乗効果【パーム・スプリングス】感想

パーム・スプリングス

 
60点
 

【短文感想】

 要はタイムリープものを使って、恋愛とモラトリアムを描いた作品なんだと思います。主人公のナイルズはタイムリープに囚われ、もう諦めの境地にいて、彼はそこで「どう楽しむか」を追求する日々を送り、独りでいることに慣れきっているわけです。そこにやって来たのがサラ。独りに慣れきっていたナイルズは、サラと過ごすことで、「同じ毎日の繰り返しでも、他者がいればこんなに楽しい」と実感するわけです。2人だけで楽しい期間は、明確にこれモラトリアムであり、ロマンスの真っ最中なんです。
 
 ただ、このモラトリアムも、サラが脱出を本格的に試みることで終わりを迎えます。ここでのナイルズの態度が、割と「恋人」として宙ぶらりんなモラトリアム状態でいることをよしとする彼氏みたいになってて面白い。面白いのは、この「脱出」のきっかけがサラの意外な側面が見えたことという点(このミスリードも上手い)。もう「元通りの関係」ではいられないとなった途端に「日常」から進もうとする。「終わらない日常」から抜け出し、2人で人生を歩んでいく覚悟を決めるという展開になります。
 
 つまりは本作は、タイムリープという設定を使って王道のロマコメをやってみましたという映画で、実際こうして観るとかなり良くできてるんです。まぁただ、私自身がロマコメそこまで好きじゃない(嫌いではない)ってのと、本作で語られていることに関しては、「もうこういうメッセージ、見飽きたなあ」って思っちゃったせいかのれなかったっていうだけでね。
 

 

ロマコメたち。

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何を以て「生きた」と言うのか【SEOBOK/ソボク】感想

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72点
 
 
 アクション映画ではありますが、人生や死生観についての映画でもあります。
 
 コン・ユ演じるギホンは、余命僅か。対して、人類初のクローンとして作られたソボクは、「死なない」存在。前半はこの2人が心を通わせてゆくロード・ムービーとして作られています。ここで重要なのは、ギホンは余命僅かなので、自身の命を長らえさせるためにソボクを護衛しているということです。ソボクはソボクで生きる意味が分からないため、ギホンに「何故生きるのか」という問いかけをしていきます。この問いかけによって、自分の人生を見つめ直したギホンが、利他的な行動に出るのが本作のクライマックスです。
 
 この背景にあるのは、大企業と体制側の利己的な行為です。あの社長はソボクという個人を蔑ろにし、永遠の命を得ようとしていました。ここに、企業や体制など、大きな組織が個人の尊厳を踏みにじるという、現実の社会でも起こっている構造が見られます。そして、ギホンも「体制側」でした。体制につき、大切な人を売り、その後は犬として後悔しながら生活をするしかなかったのです。しかし、演じているのがコン・ユですから。最後には覚醒します。韓国映画には、最近増えている過去の民主化運動を題材にした作品などのように、「一市民の目覚め」が重要な要素となっている作品が多いですが、本作にもこの構造があるわけです。そしてコン・ユはこの手の主人公を演じ続けた俳優でもあります。
 
 そしてこれは、人生観と死生観に繋がってゆきます。つまり、人間の人生とは、「何をなしたか」である、ということ。ギホンは余命僅かではありましたが、最後の最後に覚醒して為すべきことを為します。ソボクは短い人生ではありましたが、一時の自由を得ることができました。監督は、本作の撮影の前に親類を癌で亡くしたそうです。そこから構想が始まったそう。短い人生においても、何を為したのか、何をすれば「生きた」と言えるのか。こういう監督の思いが、本作にはあると思います。
 
 

 コン・ユ出演映画。

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