暇人の感想日記

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拗らせた青春の、見事な大団円【やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭】感想

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著:渡航

イラスト:ぽんかん⑧

出版社:小学館

 

 渡航先生原作、ぽんかん⑧先生がイラストを担当しているガガガ文庫を代表するライトノベルシリーズ。めでたく最終巻となります。本作は、2011年に①巻が発行され、2013年にアニメ化されると瞬く間に大ヒットし、「このライトノベルがすごい!」で前人未到の3回連続1位を達成して殿堂入りを達成。名実ともに2010年代を代表するライトノベルとなりました。

 

 私が本作と出会ったのは大学1年生のときで、Amazonで偶然見つけたのがきっかけでした。今でも主流である長文タイトルながら、主人公、比企谷八幡の絶妙な拗らせぶりと軽妙な語り口、高校の時に経験した「ぼっちあるある」の共感度の高さなどからハマり、購入を続け、「フルメタル・パニック!」以来、久しぶりに完結まで付き合ったライトノベルになりました。

 

 

 このブログでは、昨年に⑬巻の感想を挙げています。私はそこで本作について、「明らかにギアが変わった点がある」と書きました。この記事では、この「ギアが変わった」点について書き、そこからこの「俺ガイル」という作品が他のライトノベル、青春ラブコメとどのように違っているのかについて、自分なりの意見を書いていきたいと思います。そしてそのために、①巻から最終巻までの「変貌」を書いていきます。

 

 本シリーズは、①巻の時点では、当時流行っていた「ライトノベル」のパロディ的な作品だったと思います。この「当時流行っていた」ものとは、「涼宮ハルヒ」以降爆発的に増えた「エキセントリックな美少女がやれやれ系主人公(文章はだいたいコイツの一人称形式)を引っ張りまわして謎の部活を作り、そこでのドタバタやラブコメを描く」というもの。だいたいの場合、主人公は「やれやれ」と言いつつもヒロインたちに起こる問題を解決してやり、ハーレムを建設していきます。そして基本的にこの主人公は鈍感です。

 

 ①巻について見てみると、比企谷八幡というぼっち(語り部)が、先生に半ば強制的に「奉仕部」に入れさせられ、学年1レベルの美少女と部活動するというもの。そしてもう1人ヒロイン(主人公に惚れてる)がいると、形だけ見ればテンプレです。しかし問題なのは、タイトルの通り、テンプレを装っておきながら、内容はどこかが「間違っている」のです。部室にいたヒロインとは毒舌を吐き合ってばかりでフラグが全然立たないし、代わりに八幡にとっての大本命は戸塚彩加(男)で、こっちにフラグが立ちまくります。しかも主人公はずっとぼっちだしと、①巻は、テンプレをパロッた内容でした。もう忘れている方もいるかもしれませんが、①巻の帯に推薦文を寄せていたのは当時、一瞬だけ覇権をとったラノベ僕は友達が少ない」の平坂読先生でした。この点からも、作品の作りとしては確信的だったのではないかと思います。

 

僕は友達が少ない (11) (MF文庫J)

僕は友達が少ない (11) (MF文庫J)

 

 

 そしてシリーズが続くようになり、内容は八幡さんが自らの「ぼっち」の経験を活かして、斜め下の方法で問題を解決するという「八幡さんぼっち無双ラノベ」になりました。ちなみにヒロインとのしっかりとフラグを立てている。②~⑥巻はそうで、基本的に他愛のない話が多い印象です。ただ、この頃にも後の内容にもつながる片鱗が見えてきて、「他愛のない話」も伏線だったのだと分かります。

 

 この他愛のない内容が変わるのが⑦巻です。ここから、本シリーズは「ライトノベル」の形態は保ったまま、「ライトノベル的」ではない作品へと変貌していくのです。具体的には、従来のラブコメよりも、より「人間関係」に焦点を当てたドラマになっていくのです。そして変貌にしたがって、文章も一般文学的な表現が多くなっていき、「ライトノベル」的なものがどんどん排されていきます。

 

 まず変貌するのは⑦巻。海老名さんに告白したい戸部と、戸部の気持ちに気付きつつ、関係を壊したくないからと告白を回避したい海老名さんの依頼を受けた奉仕部は、八幡さんのいつも通りの「斜め下」の解決方法で問題を処理します。しかし、その方法が良くなかった。八幡さんは「俺は「ぼっちだから」どうなってもいい」という「自己犠牲」の精神で事を処理してしまいました。「大切に想っている」2人の気持ちから目を逸らして。それは不誠実な行為です。葉山達のように、「普通」の奴らならば、件の通り、この辺は折り合いがつきます。しかし、それができないのが八幡さんであり、雪ノ下雪乃なのです。ここから、話は一気に面倒くさい方向へ向かっていきます。⑧巻で選択を間違え、⑨巻で「本物が欲しい」と言うもやはり本質的には変わらず、「気持ちから目を逸らした」慣れ合いになります。

 

 奉仕部3人(というより、八幡さんと雪乃)の2人が何を恐れているのかというと、「関係が変わる」ことです。八幡さんがどっちを選ぶにしても、このままではいられない。だから迷っているのです。そしてその対極にいるのが葉山達で、関係を継続させたいからこそ、気持ちを察して、押し殺しているのです。しかし、八幡さんはそれができない。「紛い物」と断じ、「本物」の関係を手にしようとします。この「本物」とは、気持ちから目を逸らさない関係です。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

 

 

 だいぶ回りくどいことをやっていますが、目指している点はラブコメらしく、「どちらのヒロインを選ぶか」です。本作が特異な点は、これを「人間関係」の話まで持って行っている事。よくあるラブコメならば、「主人公の鈍感さ」として処理される点を、本作は「関係から目を逸らした」不誠実な行為だと断罪し、ヒロインを選ぶことで変わるであろう関係性に八幡さんと雪乃、そして由衣は悩みます。何故なら、関係が変われば、序盤のような「他愛のない話」はもうやってこないかもしれないから。これが大人ならば、まだ「そういうもんだ」と割り切れると思います。しかし、彼と彼女は高校生です。しかもどちらも人間関係に関してはかなり拗らせており、非常に不器用。まだ未熟で、人間関係を捨ててきた2人がそれでも気持ちに向き合おうとする姿は非常に青臭く、だからこそ八幡さんの非常に面倒くさい告白はグッとくるわけです。そしてその後の雪乃の告白にも。

 

 八幡さんのような「俺はぼっちでいい」という考え方は、ライトノベルの中ではかなり肯定的に扱われ、しばしば「カッコいい」とさえ言われます。八幡さんが圧倒的な人気を誇っているのもこの点が原因の1つだと思います。しかし、上述のように、本シリーズでは⑦巻以降、こうした「高二病的な」思考、態度からの脱却物語になっているのです。この点でも本シリーズには、「ライトノベル」というものに対する批評的な視点があると言えます。

 

 この2人をほとんど保護者的な目線で見ていたのが由比ヶ浜結衣。2人と比べればまだ人間関係の経験値がある彼女が間に立ち、2人の関係を(結果的に)上手くとりなしました。そしてさらに新たな関係性を築くのも彼女。八幡さんはよく「人間関係はリセットできる」と言っています。由比ヶ浜との関係もリセット(=関係を断つ)するつもりだったのでしょう。しかし、1つの終わりは、また新たな始まりでもあります。人間関係はリセットできますが、同時に新たにやり直すこともできるのです。それが示されたのがラストで、①巻と同じく、八幡さん達にとって、新たな関係が築かれることを示唆していました。故に本作は、ラブコメと同時に、人間関係を拗らせ、目を背けていた八幡さんが、初めてそれに向き合い、関係を獲得したという、成長の話としても上手くまとまっているのです。

 

 本作は、シリーズを通して、やっていることの表面上は「青春ラブコメ」です。ラブコメといえば、だいたいは「どのヒロインを選ぶか」が焦点です。しかし本シリーズは、そこに「拗らせた奴の面倒くさい葛藤」を盛り込み、話に独自の厚みをつけた作品だったと思います。故に「文学」とか言われるし、タイトルにある通り、青春ラブコメとして「まちがっている」のだと思います。抽象的な内容をやり切った渡航先生、お疲れさまでした。続巻も待っております。

 

 

前巻の感想です。

inosuken.hatenablog.com

 

 ライトノベル作品。

inosuken.hatenablog.com