暇人の感想日記

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そうだ新海誠、あなたはそういう人だった!【天気の子】感想 ※ネタバレあり

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89点

 

 

 2016年に公開された『君の名は。』が誰も予期していなかった特大ヒットを飛ばしてしまい、現状、(少なくとも興行収入的な意味で)ネクスト・宮崎最有力候補となった新海誠。本作は、彼の真価が試される3年振りの新作です。

 

 『君の名は。』は奇跡的な作品でした。川村元気さんによる万人向けのチューニングの上手さもさることながら、新海監督のライト層への知名度の低さ、SNS、そして(多分)時代的なもの、その全てが上手くはまって生まれたヒットだったと思っています。なので、もう1回同じヒットをうてといってもそれは無理な話。

 

 そこで、新海監督には2つの道が示されていたと思います。1つはもう1回、同じ路線の万人向け作品を作ること。もう1つは彼の本来の作家性を爆発させた作品に振り切ること、東宝的に、そして周りに群がってきたスポンサー連中は、『君の名は。』のような作品を作ってほしいと考えているでしょう。

 

 しかし、そこはさすが新海誠。本作は『君の名は。』で見せた間口の広さをそれなりに保ちつつ、彼の本来の作家性が前面に出ている作品になっており、鑑賞後、私は心の中で拍手喝采してましたよ。そうだ、お前はそういう男だった!と。

 

君の名は。

君の名は。

 

 

 まず、本作を語るうえで欠かせないのは、第3の主人公ともいえる天気です。本作は雨のシーンが多いということで、『言の葉の庭』でも見事な雨のシーンを作ってくれた滝口比呂氏さんが素晴らしい仕事を見せてくれています。また、雨が晴れていくときの爽快感とかも素晴らしかったです。そこに加え、本作は新宿の街が忠実に再現されていて、完全に「2019年の東京の記録映画」になっているのも素晴らしい。余談ですが、こう考えると、ラストのあの東京は、「2020年以後の東京」の隠喩になっているのかもしれません。そりゃ考えすぎか。

 

 新海誠作品というのは、『言の葉の庭』までの5作品は映像詩的な側面が強く、ストーリーらしいものはあまりなく、陰気なモノローグを多用し、2人の男女のすれ違いを描いていました。彼らの心情は美麗な背景やそれこそ天気が代弁していて、出てくる登場人物には主体性はあまりなく、レールに乗って走る電車のように、ただ運命に流されるままの存在でした。1度だけこの作風を抜け出そうとしたのが『星を追う子ども』だったと思うのですが、ご存知の通りジブリを意識しすぎ、彼の味が消えてしまうという、中々残念な作品になっていました。

 

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 この流れが一気に変わったのが前作『君の名は。』です。賛否はあれど、あの作品の2人、瀧と三葉は、自らが運命を変えようと主体的に動き、実際に運命を変えます。しかもそれまでの新海作品には無かったストーリーもきちんとあり、これまでの新海作品っぽくないのです。しかしそれは表面上の話で、きちんと観れば新海誠の作家性もある程度保たれているという作品でした。昔から彼の作品を見ていた人間は、この絶妙なチューニングぶりに度肝を抜かれたと思います。私はそうでした。

 

 本作は、『君の名は。』で獲得したポジティブな面はそのままに、内容はより「新海作品」っぽくなりました。そしてそれと同時に、これまでの彼のセカイ系的な世界観をより外に向けて「開けている」モノにしているのだから驚きですよ。

 

 新海誠作品は、しばしば「セカイ系」だと言われます。このセカイ系と言うのは諸説あるらしいのですが、簡単に言えば「君と僕」の関係がそのまま世界の命運に直結するというものです。そこでは彼ら彼女らの周囲にあるであろう社会や世界は描写されず、ひたすら2人を中心にして物語が展開し、終わります。代表的な作品には、それこそ新海誠作品の『ほしのこえ』や、秋山瑞人先生著の名作「イリヤの空 UFOの夏」が該当するそうです。これに照らし合わせれば、確かに新海作品はセカイ系と言えると思います。どの作品も男女の世界が中心であり、彼ら彼女ら以外の世界はそこまで描かれません。だからよく童貞臭いと言われるんですけどね。そこでは、男女を引き裂くものは「運命」であり、彼らはそれに流されるままに生きていました。

 

 

 本作も、表面上は同じです。帆高と陽菜が出会い、2人の願いが世界の形を変えた物語です。しかし、その中身は大きく変わっていて、「セカイ系」という極めて閉じた世界で描かれていたものを大きく開いて描いています。それが表れているのが2人を引き裂くもの。それまでの新海作品では、「運命」という曖昧なものだったのに対し、本作で2人を引き裂くものは、より具体的な「社会」であり、世界なのです。

 

 本作を冷静に考えてみると、帆高と陽菜の状況は非常に悲惨なものです。帆高は帰る家があるにはありますが、ネットカフェに寝泊まりています。陽菜は家はありますが(おそらく)両親はおらず、子ども2人で暮らしているわけです。しかもギリギリで止めたにせよ、体を売っていた可能性もあったわけです。そして、社会は、そんな2人に対しては無関心を貫きます。陽菜は児相の職員が気にかけてくれていたけど、帆高に関しては、彼をみている大人は誰も彼のことを気にかけません(唯一気にかけたのは警察)。漫喫に寝泊まりする高校生など、普通に考えれば変ですよ。

 

 そんな誰からも見られない2人は出会い、「晴れ女ビジネス」を始め、束の間の幸せを過ごします。そんな2人を引き裂くものは、警察という社会の組織です。そして「人柱」という言葉通りの考え方。陽菜は消えてしまいますが、それは須賀が言っていた通り、全体にとっては「良いこと」のはずです。皆は「夢に見た」と言っている通り、深層心理では気付いている。「誰かが犠牲になったから世界は戻った」と。これには、この現実社会においても起こっていることを重ねることができて(今の諸々の問題とかさ)、「誰かの犠牲や苦しみと等価にこの社会は成り立っている」ことを我々に突き付けてきます。

 

 「みんな」はそれでいいと思っている。そしてそれは「正しい」と感じる人間がいても不思議ではない。しかし、本作はそれに対し、明確にNOを突きつけます。「誰かの犠牲の上に成り立っている」「弱い人間に責任を押し付けて成り立っている世界」なんて、間違っている。そんなものはインチキだ。そんな社会よりも、大切なのは、「君」という個人だ、と。

 

グランドエスケープ (Movie edit) feat.三浦透子

グランドエスケープ (Movie edit) feat.三浦透子

 

 

 ただ、違うのはその描き方。帆高はラストで走るのです。電車のレールに沿って、自分の足で。ここはこれまでの新海作品と明確に違う点で、「自らが世界を選択する」と言う非常に前向きなものになっています。だから、最後に帆高が言った「大丈夫だ!」という台詞が意味を持つのです。「世界は狂ってる。でもそれは、自分たちが選択をした結果だ」と、前向きにこの「狂った世界」を肯定してみせるのです。

 

 この描き方は確かに、「正しくない」し、非常に危ういもの。しかし、新海監督は帆高と陽菜の「願い」を優先し、彼らの理想を実現させたのです。周りの大人の反応も甘やかしていると言われればその通りですが、子どもの願いを優先させてやるという監督の気持ちが出たものと考えれば、私は納得できましたし、だからこその「キャッチャー・イン・ザ・ライ」だったのだと思います。

 

 まとめると、本作は、それまでの新海作品にあったセカイ系的な世界観を現実の社会問題と有機的にリンクさせ、問題を浮き彫りにしています。そして、その問題を背負わされるであろう、今を生きる若者に対し、「願い」に正直に生きて良いのだよ、と言うような作品だと思うのです。

 

 新海誠って、こういう奴だったと思うのです。こんな気持ち悪い作品を堂々と出せる奴だったのです。東宝の夏休み映画と言う大看板を背負ってでも、自身の作家性を炸裂させ、しかもそれをさらにアップデートしてみせた本作。私は好意的に見たいと思います。

 

 

これも世界の秘密の物語。

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 「水の映画」ということで。

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