暇人の感想日記

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1人の女性の、人生のはじまり【旅のおわり 世界のはじまり】感想

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88点

 

 

 日本人監督として、おそらく世界で最も評価されている監督の1人、黒沢清。これまでホラー、サスペンス、SF、ヒューマン・ドラマなど、実に多彩な作品を作り続けてきた彼が次に放ったのは、ウズベキスタンで自分探しをする女性の話でした。私は黒沢作品はとりあえず観るようにしているので今回鑑賞したのですが、本作はとにかくこれまでのどの黒沢作品とも違う雰囲気を持った作品であり、タイトル通り、人生の迷子になった1人の女性の「旅のおわり」と、彼女にとっての「世界のはじまり」を描いた、個人的には素晴らしい作品でした。

 

 黒沢監督は、これまでの多くの映画で女優を映してきました。『回路』では麻生久美子、『岸辺の旅』では深津絵里、『散歩する侵略者』では長澤まさみといった具合に(『贖罪』は観れてない。すみません)。しかし、それらの作品では、彼女たちは中心ではあっても、まだ外部が描かれていたと思います。そこにいくと本作は、前田敦子が出ずっぱりの作品で、それは比喩ではなく、彼女がいない画面は無いと断言してもいいくらいの出ずっぱりぶりです。この点で、本作は上記のどの作品とも一線を画していると思います。

 

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 この前田敦子演じる葉子は、徹底して他者とのコミュニケーションを拒否する人物として描かれています。愛想よく笑って喋るのはリポートをしているとき、カメラの前だけです。それ以外は徹底して無表情で、会話をしようとしません。本作では、この葉子と他者との隔絶を、『回路』や『岸辺の旅』でも見せた、黒沢監督お得意の画面の層を重ねる手法で描いています。上記の2作品で見せた手前(=生者の世界)と奥(=死者の世界)という画面の層の使い方を応用し、葉子が1人でポツンと立っている様子を撮るとき、手前の彼女と奥のクルーたちとはまるで「違う世界」にいるかのように撮っています。これによって、ディスコミュニケーションぶりを強調しています。

 

 そんな、まるで「違う世界」にいるかのように心を閉ざしている彼女が、唯一心を許しているのが日本にいる彼氏です。本編にはまったく出てこないのですが、LINEでやり取りをするときにだけ見せる彼女の笑顔を見る度、「本当に辛いんだな」と何とも切ない気持ちにさせられますし、同時に心を許せる人間が本当にいないのだなと思わせられます。これにより、葉子がより「向こう側」の人間に思えてきます。

 

 では、何故彼女がそこまで心を閉ざしているのかというと、現実と理想とのギャップで、人生の迷子になっているから。彼女は本当は歌手になりたいらしいのですが、実際にやっているのは過酷なリポート。このギャップにやるせない気持ちになり、「私何やってんだろ」という気持ちになっているのです。多分。そんな「迷っている」からこそ、どこにも行けない、自分と同じような山羊を解放したくもなるのです。

 

 

 精神的に迷子な彼女ですが、それを体現するように、現実でも都合3回、ウズベキスタンの街を彷徨います。そしてその度に、新しい「何か」を発見するのです。1回目は自分と同じように、どこにも行けない山羊、2回目は「理想の自分」、そして3回目の迷子で、署長の言葉から、「分かろうとしなければ、分かり合えない」ことに気付きます。

 

 3回の彷徨の末、少しだけ自分の思う通りに映像を撮り始めた彼女ですが、ここからのラストが圧巻。撮影クルーから離れ、1人で山中を散策していたとき、山羊(=自分自身)にもう一度出会い、突然「愛の讃歌」を歌い出します。ここはもう『サウンド・オブ・ミュージック』みたいな感じで素晴らしいのですが、このシーンで、彼女は「歌手志望である」ことをもう1度ハッキリさせ、この現実と折り合いをつけ、夢を追う決心をしたことを示唆しているのです。ここで、彼女の長い「旅」がおわり、ようやく新しい「世界」がはじまったのです。

 

 ここで、前田敦子さんについて書いてみます。彼女は、ご存知の通り、元AKB48のセンターでした。そして引退後は、女優志望だったこともあり、今は目覚ましい活躍をしています。この前田さんの経歴そのものが、劇中の葉子と被るところが多いのです。だから、葉子の苦労とか悲しみが非常にリアリティのあるものとして映り、それ故に本作は、私には前田敦子のプライベート・フィルムとしても観ることができました。

 

 誰しも、生きていれば迷うときもあると思います。そしてそんなときは、本作の葉子のように、周りとの関係が煩わしくなる時もあります。そんなときでも、現実と折り合いをつけて頑張っていこうとすることは、非常に普遍的な内容だと思います。故に、私にとって、本作は素晴らしい作品でした。

 

 

サイコサスペンス。こっちも好きです。

inosuken.hatenablog.com

 

 こちらの方が本作に近いかな。

inosuken.hatenablog.com