暇人の感想日記

映画、アニメ、本などの感想をつらつらと書くブログです。更新は不定期です。

【あゝ、荒野 後篇】感想

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90点

 

 「あゝ、荒野」後篇です。前篇の感想はこちら。

inosuken.hatenablog.com

 

  映画館で観ようと思っていたのですが、中々予定が合わず、そうこうしてるうちにDVDがレンタルされてしまいまして。近いところで電車で40分くらいのところでしかやってないので、すいません。日酔っちゃいました。

 劇中、寺山修司の詩が引用されます。「人は中途半端な死体として生まれ、完全な死体となる」と。本作はこの詩の体現だったと思います。この意味において、本作は正真正銘あしたのジョー」でした。

 前篇のラストから1年。しかし、世の中は良くなるどころか悪くなる一方。この閉塞的な世界で新次と健二、2人の人間が命を燃やす、というのは同じです。ですが、本作はよりテーマが明快になっていたと思います。

 それは冒頭から明らかで、競馬場で片目が新次に言う台詞から察せられます。競馬での逆転に対し、「カウンターだよ!」というやつ。つまり、逆境でも戦うことを諦めるなということですね。本作には「戦うことを諦めた人」が出てきます。新次の兄貴分的存在だった劉輝さんがその代表的な人です。彼は下半身不随になったことで戦うことを諦め、裕二を許しています。しかしそれは諦めにも似た感情で、新次は劉輝さんを突き放します。

 また、本作には「死」に雰囲気が蔓延していることは前篇に書きました。本作はそれがより色濃くなっています。老人介護施設をはじめ、孤独な死が積み重ねられています。

 このような閉塞的で、希望も無い世界で生きるためにはどうすればよいのか。戦うしかないのです。そして、その1つとして、ボクシングがあるのです。ラストのボクシングがデモ行進に重なるのもその1つだと思います。デモは、本作では、まさしく「社会に抗う」ことを体現しているものとして描写されていました。これは前篇で自殺防止フェスのときに敬二が言った「自殺こそが弱者の最後の抵抗だ」と全く反対のことです。

 これは寺山修司あゝ、荒野」の原作を執筆した時期と似通っています。原作が執筆されたのが1966年。60年代と言えば、安保闘争学生運動真っ盛りです。本作はまさしく現代の荒野を映しているのでしょう。

 そして、この「戦う」ことにはもう1つの意味があると思います。ここを考えるには、もう1人の主人公・建二について書く必要があります。後篇は彼の物語であるとも言えます。彼は吃音で、過去のトラウマもあり、人と上手くコミュニケーションが取れません。そんな彼が「つながる」方法がボクシングなのです。ここから、本作においては、ボクシングはコミュニケーションに似た意味を持つと思います。

 そう考えると、最後の新次とのボクシングでは、彼と新次の言葉を超えたつながりが生まれているのです。その証拠かどうかわかりませんが、新次は最後のボクシングだけ、真剣にやっているのです。これまで憎しみでしかボクシングをしていなかった彼が、初めてそれ以外の感情を以てボクシングに臨んでいるのです。戦って、「つながって」いるときだけ、生を実感しているのです。そして、この試合の最後。あの一瞬だけですが、これまでバラバラだった彼らが新次と建二の試合を通して「つながって」いたと思います。建二は、あの試合を通して、「完全な死体」となったのです。ここが少し「あしたのジョー」っぽい。

 ラスト、新次の「これが俺だ」と言わんばかりの視線。確かにそこには、最悪な社会でも、戦い続けた1人の人間がいたと思います。